子どもを「見る」ということ

大人に見られずにのんびりできる場所ってありますか?

 

 

 

音声ファイル(12分15秒)

(BGM  Bryan Kessler〜ゆるカフェ・ハワイアンより Sunday Morning )

 

(1)保育のみかたの基本スタンス(確認)

この「保育のみかた」では子どもの育ちとそれを支える先生の教育・保育のことを考えることを

主眼としています。ですので、役所がどうのとか、教育委員会がどうのということは一旦横に置いて、

子どもの育ちというものを考えていこうというスタンスを基本としています。

 

今日の話も、その辺りの区別をしながらお考えていただけると有り難いです。

 

 

(2)子どもを「見る」という行為

幼児教育において子どもを「見る」ということは最も大事な営みの1つである。

という考え方は、それほど異論がないところではないかと思います。

 

今日はこの「見る」ということについて、少し考えてみたいと思います。

園庭づくりをしている時に、多くの先生は見えない場所を作りたくないと言います。

理由はもちろんわかりますが、私は基本的には反対の立場です。

それは子どもには「見られない」という権利もあるからです。

 

大人が子どもを見るとき、

ある意味においては大人が子どもに対して働きかけていることになります。

子どもにも「働きかけを受けない権利」というものがあるはずです。

 

大人にはプライバシーが必要ですよね?

子どもにだって必要だと思いませんか?

隠れ家のような場所があると、そこに入ってみたくなる。

上の写真のように。

 

先生方、意識していますか?

子どもを「見る」というのは、ある意味では「見られる側」に対して

権力の行使をしているということを。

「見られたくない」という権利を保障していますか?

いや、少なくともその権利を侵害しているのかもしれないという

自分を省みる意識だけは必要なのではないかと思うのです。

 

(3)ベテラン保育者の「見る」

佐伯胖先生の『幼児教育へのいざない〜円熟した保育者になるために』という著書の中で

こんな一節があります。長いのですが、とても大事なことだと思うので、引用させていただきます。

 

(P.20)

 「見る」という行為が、つねに見られている側への配慮のもとで行われていると、ものごとが「向こうから見えてくる」。子どもが「見せたがっている」ことが見えたり、「見せたがっていない」ことが見えたり、「これは、なにか(大事なことが)あるな」と思われることが、目に飛び込んでくる。私たちが目指すことは、見ようとしてみることではなく、見えてくることを、見逃さないことなのではないだろうか。

 ベテラン保育者というのは、「子どもをよく見ている」というより、「子どもがよく見えている」のではないだろうか。それに対し、初心者は、実は見えている(目に入っている)のに、見逃してしまうことが多いのではないだろうか。必要な訓練があるとすれば、「よく見る」訓練よりは、「よく見える」訓練(そういう「訓練」があるとは、あまり思えないが)なのではないだろうか。

 

「見る」「見られる」「見える」という3つの行為を考えた場合、

「見る」というのはある種の意思が入っていて、能動的な行為と言えます

「見られる」というのは、見られている側には意思がなく、受動的な行為(厳密には行為ですらない)と言えます。

では「見える」はどうなのでしょうか?「見よう」という意思があり、アクティブに見ているわけではないし、かといって誰かに強制されて見せられているわけでもない。

 

東大の國分功一郎さんが「中動態」ということを検討されています。

私はまだ勉強不足で理解が追いついていませんが、

「見える」という能動でも、受動でもない状態で見ることの大事さを

佐伯先生は伝えてくれている気がします。

 

参考文献

佐伯胖著『幼児教育へのいざない〜円熟した保育者になるために』

 

 

保育者支援ネットワーク「保育のみかた」運営責任者

博士(教育学)

保育コンサルタント

園庭づくりコーディネーター

[著書]

『ワクワクドキドキ園庭づくり』(ぎょうせい)

『遊びの復権』(共著)(おうみ学術出版会)

保育者の「相互支援」と「学び合い」の場

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