第1回 「経済教」という現代の信仰

 

 今日から、向こう3週間にわたって、「経済」という名の宗教と保育について考えてみたいと思います。

 

 

 先日、ある新聞記事を読みました。「子どものスポーツ経験は、親の経済格差によって大きく変わる」という内容でした。読みながら、私はある違和感を覚えました。この種の記事は近年とても多い。教育格差、体験格差、文化格差——あらゆることが「経済格差」というレンズで語られています。その違和感の正体を考えていて、私はこう思うようになりました。現代社会は「経済」を一種の宗教として信じているのではないか、と。

 

 歴史を振り返ると、ある時代を支配する「大きな語り」というものが必ず存在してきました。中世のヨーロッパでは、あらゆることがキリスト教の言葉で語られました。生も死も、病も恋愛も、戦争も農業も、すべて神の言葉で説明されました。日本でも、長く仏教の言葉が社会を語る言語でした。そして近代に入ると、日本では天皇という存在がその位置に座り、天皇の名のもとに死ぬことすら厭わない時代がありました。

 

 では現代はどうか。私たちが何かを語るとき、最も使いやすく、最も説得力を持つ言葉、それが「経済」になっていると私には思えます。教育の議論も、子育ての議論も、医療も、外交も、ほとんどすべてが「経済」の土俵で語られます。GDP、コストパフォーマンス、投資効果、機会損失。こうした言葉は、もはや専門家だけのものではなく、私たちの日常に深く染み込んでいます。現代における学校選びもかなり「経済的な理由」が大きくなっているのではないでしょうか?経済というのは、お金という意味だけではなく、コスパ・タイパなどと呼ばれるものや将来の経済性の良さ(費やしたお金に対してどのくらいのリターンがあるか?)も含まれます。

 

 なぜ経済言語はこれほど強力なのでしょうか。理由の一つは、数値で表せるからだと私は思います。数字は分かりやすく、誰でも比較できます。「親の年収が高いほど子どものスポーツ経験が豊富」という命題は、データで示せば一目瞭然です。反論しようとしても、「では数字を出してください」と言われると、簡単には返せません。

 

 子どもの育ちに影響を与える要因を考える場合、大切な要因は決して経済力だけではないはずです。家庭での会話の質、子どもへの関心の向け方、地域とのつながり、親自身の趣味や教養、近所にどんな大人がいるか。こうしたものは、どれも子どもに大きな影響を与えますが、数値化が難しい。そして数値化できないものは、議論の場から静かに脱落していきます。

 

 試しに「教養力格差」という言葉を使ってみたらどうでしょうか?違和感がありませんか?「経済力格差」とは言えるのに、「教養力格差」とは言いにくい。これは私たちの社会が、経済という言語を特別扱いしている証拠だと私には思えます。

 

 もちろん、経済格差が存在することも、それが子どもに影響することも事実です。私はそれを否定したいのではありません。私が問いたいのは、「経済」というレンズだけで子どもの育ちを語ることに、どれほどの危うさがあるかということです。

 

 中世の人々は、すべてを神の意志として説明することが当たり前でした。彼らはそれを「信仰」だとは思っていませんでした。「現実をそのまま語っている」と思っていたのです。後の時代から見ると、それは一つの信仰のあり方だったわけです。私たちが今「経済」で何でも説明しようとしていることも、後の時代から振り返ると、一つの信仰として見えるのではないでしょうか。「経済教」と私が呼びたいのは、そういう意味です。

 

 この信仰は、保育の現場にも深く入り込んでいます。次回は、それがどのように私たちの子ども観と結びついて、独特の問題を生んでいるかを考えてみたいと思います。

保育者支援ネットワーク「保育のみかた」運営責任者

博士(教育学)

保育コンサルタント

園庭づくりコーディネーター

[著書]

『ワクワクドキドキ園庭づくり』(ぎょうせい)

『遊びの復権』(共著)(おうみ学術出版会)

保育者と保護者の「相互支援」と「学び合い」の場

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