こんにちは。
前回の投稿からかなり長い時間が経ってしまいました。
忙しさのせいにしてはいけないのですが、
精神的にも余裕がなかった感じです。
マスコミが放送すればするほど、多くの人が「危険な暑さ」だという認識をする
猛暑日ですが、本当に危険なんでしょうかね?
油断しちゃいけないという暑さなのは間違いないかもしれない。
だけど、元来子どもたちは結構タフです。
大人の基準で子どもをみちゃいけないというのは、ここでも適用できると思います。
単に数字で見るのではなく、子どもの様子を見ながら判断すること。
遊ぶ場所にうまく木陰・日陰を作り、水を使い、そして何よりめっちゃ楽しく遊ぶ。
この3つができていれば、熱中症のリスクはかなり低減されます。
一生懸命に弱い子を作るのではなく、丁寧に強い子を育てたいものです。
さて、今日は「私〜が嫌い」という園児をどう理解するか?
というお話です。
👇音声でお聞きいただける方はこちらからどうぞ👇
BGM Bryan Kesslerゆるカフェより〜Summer Rains
(1)園内研でのお話
子どもと共に生きる先生方。
それは「子どもとの関係の中で生きる」ということでもあります。
まして、担任を持っている先生であればなおさら。
1年間はその子たちとの関係の中で生きている。
私はその関係というのは「2人称的関係」であることが大切だと思います。
その子の生命はどういう時に燃え盛るのか?
いま、この子は何に憤っているのか?
1対24の関係があるのではなく、1対1の関係を24組作る。
私の長年の友人でもあり、最も尊敬しているスポーツ指導者の1人でもある人が
こんなことを言っています。
「全員をエコひいきする」
その人はちょっと元気がない選手がいた時に、
パッとその場で声をかけるのではなく、後からLINEをする。
しかも、「今日、元気がなかったけど大丈夫?」とかじゃない。
「◯月◯日って〜(その人が好きなアーティスト)のライブって言ってたやんな?
早く上がってオッケーやで」
というような連絡をする。
誰にも言わずに、ちょこっとしたエコひいきをしてあげる。
こういう関係は、本当に1人ずつと関係ができていないと生み出せない。
しかし、教育をしているとちょっと距離をおいて、客観性が高くて、みんなに平等で、
という「3人称的な関係」が良いと思っている人が少なくない。
いや、むしろその方が楽だから、そうしているのかもしれない。
(2)どうすれば良い?
大切なことの1つは、子どもに魅せられることだろうか。
倉橋惣三が『育ての心』の中で「ひきつけられて」という文章を書いている。
『取り敢えず、子どもの今、その今の心もちに引きつけられる人』
そんな人でありたいとしている。
子どもが悪戯をしている時に、教育的には注意をして辞めさせるのが本来なのかもしれない。
だけど、そこでワクワクしている目、ドキドキしている手を見るにつけ、
その子どもの「今」にどうしても魅せられて、つい止めるのを忘れてしまう。
子どもと共に生きる人は、そんな心もちを持つ大人でありたい。
倉橋はそんなことを書いているのではないでしょうか。
もちろん幼稚園などでは、学級経営という概念があるから、
1対24の関係も大事であるとか、そういうことを言う人もあるでしょう。
そんなことはわかっている。
だから、1対1の関係を作らないという理由にはならない。
大切なのは、こちらが半分「受け身」でいること。
難しいことを言うなら、(能動態でも受動態でもなく)中動態といった方が良いかもしれない。
子どものことを受け入れながら、感じ取りながら、ただそこにいる大人。
そんなことが大切なんじゃないだろうか。
(3)子どもの好き嫌い
さて、子どもの好き嫌いである。
子どもが積極的に「私は泥んこになるのが嫌だから、泥遊びはしない」と言う。
そんな場面に出くわすことは少なくない。
そんな時、そこに積極的に「好きにさせてあげたい」などと思っては子どもも大人も辛くなる。
「そっか、嫌いなのね」と受け取る。
でも、その子は本当に嫌いなのだろうか?
いや、たぶん「楽しいとは思えない」と言い換えることができるはずである。
もっと言うなら「まだ、楽しいと思ったことがない」でも良いかも。
ということは、「子どもの〜が嫌い」という表現は
「まだ、その楽しさを知らない」と言い換えられるんじゃないだろうか。
子どもたちの心はまっすぐ。
面白いと思ったら、すぐにそこに向かっていく。
「嫌い」なんて、本当はないんじゃないかと思う。
その言葉の本当の意味を受け取るには、
1対1の関係ができていないと難しいんじゃないだろうか。
(4)先日お邪魔した園での出来事
先日お邪魔した園でも
「おじさん誰?あっち行って」
と言われた。
自分で言うのもなんだが、私は初めて出会った子とも
結構すぐに仲良くなるという特技がある。
そんなことを言われることは珍しい。
でも、「見ちゃダメ?なんで?」と聞いたら、めっちゃ説明してくれる。
とにかくよく喋ってくれる。
「へぇ、そうなんだ。じゃ、おじさんは見てない方が良いよね」
「ところで、これは何?」と聞くと、またしゃべってくれる。
結局関係を作ることはある程度できるわけだが、
その子の「あっちに行って」には意味がある。
どんな意味かはすぐにはわからない。
後から担任の先生に聞いたところでは、
年度の最初には担任の先生ともそのやりとりがあったそうだ。
その子は慎重な子なのかもしれないと思った。
少し臆病なのかもしれない。でも、人は嫌いじゃない。
わざわざ「あっちに行って」って言えるんだから。
そんなことを感じながら、「あなた嫌い」に近い言葉を聞いていた。
まだその子は知らない「他者と繋がる喜び・楽しさ」を、
これから担任の先生や周りの子どもたちと一緒にどう作っていくのだろうか?
楽しみですね。
(5)終わりに
言葉を額面通りに受け取る部分と額面通りに受け取らない方が良い部分
があるような気がするんです。
決して嘘を言っているわけではなく、
持っている言葉の限りを尽くして表現をしていますよね。
だけど、持っている言葉が少ないから、どうしても
「嫌い」というまっすぐな表現になる。
でも、それを少しだけ翻訳して心もちを読み取ることが
我々大人には必要なんじゃないだろうか。