「子ども性」を考える

 

 

先日、大人が「最後に大人が勝たないということ」というコラムの中で「子ども性」という考え方に言及した。今日はこのことについて、さらに考えを深めてみたいと思う。

最後に大人が勝たないということ

東京大学の名誉教授で教育学がご専門であった佐伯胖先生の(2001)『幼児教育へのいざない〜円熟した保育者になるために』(増補改訂版が2014年に出版されているので、まだまだ手に入ると思います)という本は私にとってバイブルの1つである。佐伯先生は「子どもらしさ」という表現を使っておられるが、子どもだからこそ持っている性質というものがある。これが私の言うところの「子ども性」である。佐伯先生が使っている「子どもらしさ」という表現を私が使わない理由は「べき論」につながりかねないためである。子どもらしさ=子どもはこうあるべきであるという安直な思考につながってしまいかねず、それがない子どもは「子どもらしくない」という思考になることを恐れるからである。

 

「子ども性」という概念は、まだまだ構築している途上ではあるため、今後さらに検討する必要がある。先日もある先生から「子ども性の対義語は?」と問われ、議論をした。「おとな性?」かと思いきや、多分それは違うという話になった。このことについては、これからの議論の中で、少しずつ見出したいと思う。

 

さて、この「子ども性」、実は古くから言われている。これまで、海外ではピアジェやヴィゴツキー、ウィニコット、メルロ=ポンティなど、国内でも保育関係では倉橋惣三や津守真、臨床心理関係では河合隼雄、中井久夫など多くの学者がこの「子ども性」につながる話をしてきた。また、全く違う視点からGibsonのアフォーダンス理論やユクスキュルの『生物から見た世界』も「子ども性」に通じる理論である。

 

決して新しくないこの「子ども性」という考え方だが、おそらく幼稚さとか未熟さと捉えられたり、取るに足らないものと受け止められてきた歴史を持っている。“子どもっぽい”などという表現はその際たる例だろう。その重要性と奥深さを知っているメンバーには、上記の錚々たる顔ぶれの学者たちがおり、さらに保育者たちもその中に加えられるだろう(ただ、全員がそれを感じているとは言わない。私が知っている保育者の中でも、かなり限られた人たちではないかと感じている)。

 

例えば、津守真先生が生命性ということに言及している(『子どもの世界をどうみるか』29ページ)。

(引用)

自分が力を出してする活動を見出した子どもは、エネルギーと自信に満ち、自分で次の活動を見出してゆく。この生命性がなかったならば、どんなに精巧に計画された活動も、子どもにとって意味がないだろう。生命性をもって未来に挑戦してゆこうとするところまで育てられた子どもは、どんな環境にも自分の活動を見出して行くことができる。実の自己充実をする子どもは、がんばって前進する子どもである。

 

大人になると(全員とは言わないが)多くの人はこういう生命性を失う。むしろ、子どもが発現しようとするこうしたエネルギーを奪うことすらしてしまう。そういう性質をいくつも持った存在として子どもを見た時に、子どもが“幼くて、未熟な存在”ではなく、私たちが見習うべき何かを持った人間としての姿が浮かび上がってくるのではないだろうか。

 

今後も、この「子ども性」について考えていきたい。先生方も日頃の教育・保育実践の中で、子どもたちならではの性質に出会うことがあるだろうと思う。そういうものを探して、是非とも私にご教示いただきたいと願っている。

保育者支援ネットワーク「保育のみかた」運営責任者

博士(教育学)

保育コンサルタント

園庭づくりコーディネーター

[著書]

『ワクワクドキドキ園庭づくり』(ぎょうせい)

『遊びの復権』(共著)(おうみ学術出版会)

保育者の「相互支援」と「学び合い」の場

〒524-0102 滋賀県 守山市 水保町1461-34 

Mail: daihyo@studioflap.or.jp