子どもが泣いた時、あなたならどうしますか?(画像 mamaco withより)
(1)春先ならではの悩み
こんにちは。
春先は新しい生活に入るとともに、
だからこそ悩み多き時間を過ごすことにもなります。
新しく集団生活に入った子どもたちが
毎日泣きながら朝を迎えること。
これを喜んでいる親も保育者もおそらくいない。
だけど、仕事をしなくちゃ生活を維持できないから、
泣く泣く園に預けている親もいる。
子どもも泣きたいけど、親だって泣きたい。
そんな日々を送っている人も少なくないのではないでしょうか?
(2)未知との遭遇
私たちは知っている世界の中にいると安心します。
安心は生き物として必要なことであり、不安はできれば避けたいことです。
だけど、不安を避け続けることはできるのか?
答えはノーです。
不安を避け続けることはできないし、生きていく上では不安を処理する能力は大切です。
成功が失敗の先にしか存在しないように、
不安を乗り越えることでしか、世界の拡がりはないし、
世界の拡がりがなければ、幸せも訪れません。
未知との遭遇に付随する不安は生きていく上では乗り越えなくてはいけないハードル
なのかもしれません。
大人はある程度そのことを分かっている。
だけど、困るのは子どもはまだ経験がないから、そのことに思いが至らないということです。
だからこそ、不安(=不快)には泣くという行為で反応するし、
不快は避けるべきことなので、嫌だ嫌だと言ってガンガンに泣くわけです。
(3)子どもの論理
保育者としては、他にも園児がいるのだから、一人の子にかかりっきりにはなれないし、
泣き止んでもらいたいという意識になるのは当然です。
ここで泣き止ませようとするのが大人の振る舞い(=論理)ですが、
子どもには泣きたい理由がある。
その子どもなりの「論理」をいかに大事にするか?
我々大人はどのくらいそのことを真剣に考えているでしょうか?
子どもの頃、論理の根底には「快ー不快」の軸があります。
ユクスキュルが「環境世界」と言いましたが、乳幼児の環境世界は
間違いなく「快-不快」を軸にして判断されています。
特に乳児の頃は快-不快が前景化していて、全ての振る舞いはそれで決まると言っても過言ではない。
幼児期になると、少しくらい抑えが効くようになってくる。
その後は、徐々に快-不快の重要度が下がっていき、道徳性とか忍耐力とかがついてくる。
その論理はどんどん複雑になって、ちょっとやそっとでは読み取れなくなります。
さらに大人になると快-不快がよくわからなくなる場合も多く、
体調を崩した後に自分はストレスがかかっていたのか?と感じる場合も少なくありません。
不快は抑え込むもの。我慢すべきもの。避けるべきもの。
と位置付けて良いのだろうか?
大人になった時に「快-不快」がわからなくなるほど抑え込んで良いのだろうか?
いやむしろ、
しっかりと快-不快を感じ切ることが大事なのではないだろうか?
青年期以降も、不快をしっかりと感じつつ、その中を生き切ることが大切なのではないだろうか?
と私は思うのです。
(4)不快を共に生きる
快も不快も、プリミティブなものであり、
それだけを基準に生きる訳にはいかないのかもしれない。
ただ、一方でその論理を大切にすることもまた、
大人の役割ではないかと思います。
保護者だって、保育者だって、そんなことは分かっている。
だけど、そうできない大人の「論理」(事情)があるから仕方ない
と言われるかもしれません。
だけど、それでもです。
どうやったら子どもの「論理」と共に過ごせる時間を確保できるか?
これを考える必要があると私は考えます。
乳児・幼児の頃は肌を触れ合いながら一緒に感じる
児童期には近くにいて一緒に感じる
思春期は遠くに感じながらも、子どもの振る舞いから感じ取る
子どもたちが持っている大人とは違う「論理」
そこにある「不快」をどうにかなくすことではなく、
不快を一緒に過ごす、共に感じることが必要なのではないでしょうか。
余談ですが、
我が家の子どもたちは中高生です。
いわゆる反抗期と呼ばれるような
大人への階段を登るプロセスをしっかりと歩んでいます。
子どもが懸命に親に反抗し、
親が今まで与えてきた価値観を
自分の力で吟味している真っ最中です。
僕は不快をあえて受け入れて、自らの生き方を模索する
そのエネルギーを素敵だなと思っています。
反抗期は忌避すべきものでは決してない。
はっきり言って、
子どもたちにとって私は不快な存在なのでしょう。
その不快と向き合ってもらいたい。
私はその不快すらも共に生きたいと思っています。
子どもたちの論理をまずは感じてみませんか?