思い通りになんて育ちません

(画像 https://www.awajikidsgarden.com/post/akgnature)

 

(1)人工身体と自然身体

 

病院に来て気づいたことが1つあります。

(悪く聞こえるかもしれないけど、決して悪く思っているわけではありません。)

医療というのは「人」を見るのではなく、「数字」を見るものになったということです。

治療後に私がちょっとした痛みを訴えた時も、モニターを見て

「数字的にはそれほど問題はなさそうだ」ということを医者は言う。

手術の時以外、医者は私の身体に1回も触れていない。

看護師も脈を取る以外は身体には触れない。

若い看護師さんは心電図のモニターを外すのも躊躇する。

 

つまり、医療は生身の人間に触れる(を診る)営みではなくなり、

装置によって描き出されているグラフや数値を確認して、

標準化された「データ」に基づいて、

その人が一般と比べて普通がどうかを確認する作業

になったということです。

 

かといって、それが感じが悪いとか、

もっと僕自身のことを診てくださいと言いたいわけでもない。

程々のワガママは聞いてくれるし、

ものすごく気をつかってくれます。

入院生活は隣の人のいびき以外はすこぶる快適です。

*よく寝る人です(笑)

 

養老孟司先生はこのように数字で一般化された身体のことを

「人工身体」と呼んでいます(『ヒトはなぜ、ゴキブリを嫌うのか?』)。

数字は操作も、管理も可能ですから、

管理することができるんです。

 

実際には人間の身体はコントロールできない側面があって、

隣の人のいびきは管理不能なわけです。

寝るなと言うわけにもいかないし、いびきをかくなと言ってもどうしようもない。

医者に「隣の人のいびきを止めろ」と言っても、

「そんなこと言われても…」となる。

 

そういうままならない身体のことを養老先生は「自然身体」(*1)と呼んでいます。

本来、私たちの身体はままならないもののはずですが、

医療は全てをコントロールしようとしています。

そして、我々患者も管理できていると安心するのです。

 

*1 正確には自然身体とは「歴史の上に立った身体である」と表現しています。

 

(2)全てを管理しようとする社会

 

昔の医療はそこまで発展していなかったので、

ままならない身体を相手にしていました。

だから、目や皮膚、脈などを確認しながら診断(予測)をしていました。

今は、それがほとんど必要無くなったんですよね。

 

さて、子育てに話を移しますが、

現代社会は事ほど左様に「管理されていることに安心する心もち」が

デフォルトになっているわけですから、

子どもたちも管理したくなる(管理されたくなる?)世の中です。

 

もちろん、子どもは大なり小なり管理の対象ではあります。

「◯時に帰ってこい」

「(お菓子ではなく)ご飯をちゃんと食べなさい」

「挨拶しなさい」

など、振る舞いに関する注意をされることはしばしばです。

将来の行動に影響する生活習慣を身につけるためには当たり前です。

 

だけど、最近の子育てはそういった管理するべきことをしようとしない一方で、

「ちゃんと歩道を歩きなさい」

「悪いことをしたら謝りなさい」

とか、社会的なルールに関しては、ものすごく管理をしたがる。

いずれ勝手にできるようになることに限って管理をしたがる。

私にはそういう管理が不思議でならない。

 

さらに、いまの保護者たちが管理をしたがることの最たるものは

発達や育ち、成長といった「結果」です。

これを「管理できない」と不安がるようになった。

 

あの子はピアノが上手に弾ける(うちの子は上手にならない)

他の子は掛け算がすらすら解ける(うちの子は足し算すらままならない)

 

などです。

 

ことの軽重が違うんじゃないかなって私には思えます。

育ちは

環境 → 習慣・反復 → 育ち・発達・成長

という順序で考えます。

 

最後の「育ち・発達・成長」は結果ですからコントロールできないんですよ。

だけど、そこばかりを管理したがって環境や習慣には何もしない。

これではうまくいきません。

 

(3)子どもを育てるのではなく…

 

言葉あそびと言われるかもしれませんが、

「子育て」ではなく、「子育ち」なんです。

子どもたちは環境に適応しながら反復を繰り返し、習慣を身につけ、

そして、それに基づいて自ら成長します。

大人の思うようになってなるわけがない。

別に反抗しているとかなんとかではなく、そういうものなんです。

 

親ができる最も大切なこと(の1つ)って、

子どもが多様な環境で育つことができるように、

色々な世界と直接的に触れ合うことができるようにすることです。

 

公園で水たまりに入って遊んでいる子がいたら

「あ〜、汚れ落ちないかもな」って思うとは思いますけど、

水とのその接触は唯一無二の経験です。

それが後でどのように生きるかは誰にもわかりません。

ですけど、お子さんにとってそれは重要な「環境との出会い」です。

 

だけど、泥水をガバガバ飲んだらさすがにマズい。

そういうことだけを管理すれば良い。

最大限ではなく、「最小限の管理」です。

何をしなきゃいけないか?

ではなく、どんな管理は不要か?

を自らに問うことです。

不要な管理はできるだけ外す。

 

(4)管理すべきことは何?

 

そんなこと言っても、公園で遊んでいる他のお母さんの目もあるし、

自分の子がよその子を叩いてしまったら「謝りなさい」って言うしかないですよね。

よくわかりますし、その通りです。

それはそれで仕方ない。

「全部ダメ」とか、「〜していれば良い」ということを言いたいわけじゃないんです。

 

言わなきゃいけない場面もあるし、言わなくていい場面もある。

全てはケースバイケースです。

 

こういうと結局話は振り出しに戻ってしまう。

そのことは私にもわかっています。

だけど、「最小限の管理」というところに立ち戻ることが大事です。

 

子どもの育ちには、本当に無数の要因が関わっています。

大人が気づいたことだけを伝えていても、管理できることなんて知れています。

 

だから何を管理したらいいか?に対する答えはありません。

他のサイトでは「これを注意して」みたいなことを書いていますが、

それだってケースバイケースです。

 

それに、そんなことばかり考えていたら

見守るんじゃなくって、見張ることになってしまう。

そしたら、子どもは家でくつろげなくなっちゃいます。

 

私も家でつい「先生」な感じになってしまうことがありますが、

それよりもまずは、家でしっかりと休めること。

そのことが「管理」よりも大切な気がします。

 

子どもは親が思っているようになんて育ちませんから。

 

 

 

 

 

保育者支援ネットワーク「保育のみかた」運営責任者

博士(教育学)

保育コンサルタント

園庭づくりコーディネーター

[著書]

『ワクワクドキドキ園庭づくり』(ぎょうせい)

『遊びの復権』(共著)(おうみ学術出版会)

保育者の「相互支援」と「学び合い」の場

〒524-0102 滋賀県 守山市 水保町1461-34 

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