昨日、京都府スポーツ協会主催のイベントでパネルディスカッションにコーディネーターとして参加した。私の背景をご存知ない方が多いと思うので、少しだけご説明をさせていただくと、元々私はスポーツ心理学という学問領域で研究活動をしていた。そのため、いまでもその頃の仲間と仲良くお付き合いをさせていただいており、運動・スポーツを通した社会のあり方や人間のwell-beingへの貢献について議論をする機会が少なくない。私の関心が幼児教育にシフトしていったこともあって、その議論を客観的に捉え、素朴に質問をすることが次第にできるようになってきている。そんなこともあり、パネリストの先生からご指名をいただいて、コーディネーターをさせていただくことになったのだ。
さて、ここからが本題。詳しいことは割愛するが、そのディスカッションの中で、スポーツの定義がバラバラであるという問題提起があった。競技のスポーツと教育のスポーツ、そして「余暇のスポーツ」という考え方が必要であり、余暇のスポーツという考え方が日本にもっと根付く必要があるのではないかというものであった。そして、議論はこのテーマを中心に進んでいった。その中で、子どもたちがどうしても自分の意見を言うことができずに、楽しいと思って始めたスポーツが、次第に苦痛になっていく姿があるという話が複数の方から発せられた。要するに、「なぜそうなるのかわからない」という困り果てた姿である。
このことに関して、1つ思い出したことがある。ハロウェイの古典的名著『ヨウチエン』の第4章でハロウェイはPeak(1991)を引きながら、こんなことを書いている。
Peak(1991)は教師のことを「やさしそうな顔をした軍隊」にたとえていた。教師は子どもの要求に譲歩するように見えるが、実際には時間をかけて優しく子どもを丸め込んでいき、最終的には勝利を収めるのである。
このことが実は大きな意味を持っているのではないだろうか。子供が自分の意見を言っても、最終的には大人の意見が通るという経験を私たちは常にしてきた。この国では、大人は常に正しい存在であり、子どもは何も知らない、弱い存在として扱われる。
さらに思い出すのは、佐伯胖の『幼児教育へのいざない』(2014)において佐伯は「子どもらしさ」とは未熟とか幼稚ということではなく、大人も含めて見習わなければいけないことであると言及していることである。私たちは子どもを守るべき、弱い存在と位置付ける余り、下にみるという視点を持ってしまっているのではないだろうか。そのことによって、無意識のうちに、聞いているようで、「最後には大人が勝つ」という立場を当たり前のこととして疑問にすら思えなくなってしまっているのではないだろうか。こういうことが続けば、学習性無力感を獲得してしまい、「どうせ言ったって聞いてもらえない」となってしまうのが普通である。
余談だが、「可聴域」というのがあり、若者にしか聞こえない音というものがあるそうだ(https://www.signia.net/ja-jp/local/ja-jp/mosquito-noise/ を参照)。これと同じで、子どもには感じられるけど、大人には感じられないことがある。子どもだけが持っている性質、大人が失ってしまった性質(これを私は「子ども性」と呼んでいる)というものがあるだろう。例えば、後先考えずに何かに没頭できる力、周りの目を気にせずに行動できる力などがそれに当たるだろうか?また、子どもの遊びを見ているといつも驚かされるが、子どもだけには見えている環境の可能性もある。そういうものを想定した時に、大人と子どものコミュニケーションのあり方は変わってくるはずだ。最後に大人が勝つ話し合いではなく、子どもの言っていることに真摯に向き合い、それを取り入れて、共に何かを生み出していく話し合い。そういうものが日常の中に存在すれば、考える力、伝える力、協力する力が育ってくるだろう。余暇のスポーツが日本社会に根付き、子どもの頃から「真剣にスポーツを遊ぶ」ことができる人間が増えれば、日本社会は少しだけ豊かになるのかもしれない。