生活経験を豊かにすることの意味

 

おはようございます。

今日は問題と出会うことの大切さについて、お話をしたいと思います。

 

 

(1)大学生が体現する問題

私は大学生と暮らす生活を20年以上しています。

最初の頃、大学生たちは

「勉強するのは嫌いじゃないけど、好きになりたい。」とか

「分かるようになったら面白い」

という感覚を身体から発していました。

 

ところが、いつの頃からか、その身体表現が弱くなってきているような気がしています。

 

私の身体感覚では、10年も経っていません。

時期的にはスマートフォンの登場の少し後くらいじゃないかと思うんです。

TwitterやFacebookなどのSNSが爆発的に活用され始めたのが、東日本大震災の頃

くらいでしたから、おおよそ12年くらい前でしょうか?

その数年後くらいですかね。

 

「最近の若者は…」と俗っぽい感想も一時期は持っていましたが、

そんなことを言っても始まらない。

また、若者は「社会のカナリア」ですから、

若者だけに責任があるわけがない。

若者の身体は社会を現しています。

社会の何を現しているのでしょうか?

 

(2)貧困な生活経験

その1つとして「貧困な生活経験」があるのではないか?

スマホの出現によって、それがいよいよ加速化したのではないかという

仮説を立ててみました。

 

生活経験の貧困さとは、たとえばどんなことを指すのでしょうか?

私は東京で生まれ育っています。

でも、郊外でしたから、子どもの頃には普通に土がある生活をしていました。

家の裏にはちょっとした小川もあったし、竹藪もありました。

家の前にはレタス畑があったし、朝起きて近所の公園にカブトムシを取りに行ったこともあります。

今ほどのコンクリートジャングルではなかったと記憶しています。

 

それでも、田んぼはなかったし、周辺に農家があっていろんな野菜を育てているという場所ではなかった。

滋賀に移り住んだ初めてのGWの頃、田植えの時期であることを初めて知りました。

また、秋には収穫の時期を初めて意識しました。

野菜や草花が教えてくれる季節というものも、東京では意識したことがありませんでした。

まさに都会暮らしでの「貧困な生活経験」。

そして、そのことに対する自覚のなさを身に沁みて感じたものでした。

 

(3)文明と文化

幼児教育の世界では大変著名な汐見稔幸先生が2010年に学校教育研究という学術雑誌で

『子どもの生活経験の現状』という論文を書かれています。

 

その論文の中で先生は「文明と文化の対立」という視点から生活経験の貧困化の問題を論じています。

文明(civilization)は多様な欲求を、できるだけ苦労をせずに(=できるだけ楽をして)

叶えたいという欲を、社会をあげて大規模に実現することです。

文化(culture)はもともと農業用語で、作物がよく実るように、土を手間ひまかけて耕し、

手入れをすることという意味があります。

cultureのculはまさにcultivate(耕す)と同源な訳です。

 

私は民藝運動が好きで、東京に行くと日本民藝館に足をはこぶのですが、

まさに市井の人々が丹念に手間暇をかけて、美して機能性のあるものを創造する。

まさに、文化だなと感じるわけです。

 

お分かりの通り、文明化によって生活経験は奪われていきます。

いやむしろ、生活経験を奪うことが文明化の隠れた目的と言っても良いくらいかもしれません。

汐見先生は過剰な文明化によって具体的な体験が奪われ、センスオブワンダーを発現させる

機会がなくなっているという問題を指摘しています。

 

(4)学びの起動

具体的な体験がある、いわゆる豊かな生活経験の中では、

「不思議だな。なんでだろう?」と感じる機会がたくさんあります。

他にも、

「どうやったらうまくいくかな?」

「いつ頃(どこに)行ったら、カブトムシと出会えるだろうか?」

など、具体的な体験の中には問題が山積しています。

 

一方、バーチャルな体験の中には

「綺麗だな」

「面白いな」

「かっこいいな」

と結論ばかりが存在するのです。

そこに問題や悩みはあまり存在しません。

あるとするなら「真似してみようかな」くらいでしょうか?

 

それでは学びは起動しません。

学びは問題と出会うことから起動します。

問題とは解決したくなる事象です。

問題は誰かに解決してもらうものではなく、自分で解決したくなるものです。

そんなものに出会う機会が少なく、

一方でSNS等から流れてくるものは、解決策(良いもの)ばかりです。

その生活の中で、「学びたい欲求を体現した若者」がいようはずがありません。

 

(5)保育の役割は大きい

保育の世界で具体的な体験をたくさん積み上げようとしていること。

そのことには本当に意味があります。

その時に「一緒に探して、面白がって、考えて、支えてくれる大人」が必要です。

保育者はそんな大人であって欲しい。

間違っても、先生に聞いたらなんでも答えてくれるという人にならないでほしい。

そういう大人に出会えた子どもたちは、学ぶこと、知ること、探すことが楽しいことを

身体で知るという基盤はできるはずです。

その後に何があるかによって、その基盤が生きるかどうかは変わりますが、

もしかしたら、学校を卒業してから思い出すかもしれませんから。

 

(6)終わりに

文明化の流れは止められそうもない。

 

学びを起動するために、どうすれば良いのだろう?

ちなみに、いまとなっては若者だけの問題ではありません。

電車の中で本を読んでいる人が本当に少なくなりました。

携帯で読んでいるという人ももちろんいると思いますけど、スマホを持っている

私と同世代の人の大部分が見ている(している)のはゲームです。

これもまた、文明が生み出したモンスターですね(笑)

 

どうすれば学びは起動するか?

このことに対しても、ようやく解決の糸口が見えつつあります。

その問題は、改めて考えたいと思います。

保育者支援ネットワーク「保育のみかた」運営責任者

博士(教育学)

保育コンサルタント

園庭づくりコーディネーター

[著書]

『ワクワクドキドキ園庭づくり』(ぎょうせい)

『遊びの復権』(共著)(おうみ学術出版会)

保育者の「相互支援」と「学び合い」の場

〒524-0102 滋賀県 守山市 水保町1461-34 

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