こんにちは.
今日も主体性シリーズで話を進めよう.
[先日訪れた園での出来事]
先日訪れた園.
5歳児クラスの保育を参考にして考えてみたい.
そこでは保育室でも創造性や身体性などを活かして,いろんな遊びを選択できる
環境を作ろうということで工夫していた.
多少俗物的ではあるもののが,マリオランドを部屋に作ったり,
大型のピンボールマシンのようなもの,
廊下には自分達で作ったターゲットマシン(ボールを投げて的当てをする遊び)など,
自分達で作った遊び場がいくつもあった.
子どもたちは,しばらく遊び,時折「〜したら,もっと・・・になるんじゃない?」
なんて話しながら,自分達で改良を重ねては遊んでいた.
先生に〜していい?
なんて聞いている人はいないし,困ったことがあれば先生に
「〜したいんだけど,・・・ってある?」
と聞いていたりする.
私のような外部から入っている人間がいると,退屈している園では
子どもたちが寄ってきて,ウザ絡みしてくることが多い.
そういう子たちは満足感が低く,日頃の鬱憤が表出している可能性が高い.
上記の園では,誰も絡んでこないし,伸び伸びと遊んでいた.
[5歳というタイミングでの保育の工夫]
このクラスの先生方の保育に何か特徴があるのか?
もしくは,この1年だけじゃなく,これまでの保育の賜物なのか?
などと思いながら,45分ほどそのクラスを見ていた.
答えはわからないけど,私が感じたのは2つ.
①先生の声が全く目立っていないこと.
でも,子どもたちが作った遊びを「やらせて,やらせて〜」と言って体験しては,
大爆笑しながら一緒に遊んでいた.
②子どもたちの発話に対して,多くの場合先生が一緒になって困っていたこと.
本当に困っているのではなく,問題を先生が解決してあげないという意味です.
「どうしたらいいんだろうね?〜とかあるけどダメかな?・・・ならどう?」
と提案や質問をしていた.
[発言だけじゃなく,空気を整えたい]
そんなこと,私たちもしているで
という声が聞こえてきそうだが,案外そんなことはないんじゃないかな?
一見頼り甲斐があるような先生
しっかりしていると思われている先生
にはこの保育はできないんじゃないかな?と私には感じられる.
その先生が「纏っている空気」みたいなものが結構大切な気がする.
卑近な例だが,私は「怖い先生」と思われている.
比較的優しく伝えているつもりでも,怖いようだ.
これは私が纏っている空気(それを作っているのは,表情とかボディランゲージだろう)
が為していることなんだろうと感じている.