👆音声の中で話しているタイトルと変えちゃいました
<はじめに>
前回、Do(してあげる)保育の前に、
Be(たたずまい)の保育を大切にしたいという話をしました。
その考えを、もうちょっと考えましたので、
途中経過をシェアしようかなって思います。
保育現場ではよく、
「〇〇ちゃん、お熱? 大丈夫?」「水分とってね」「もう少し~したら?」
といった声が日常的に飛び交います。
これは、子どもを守りたいとか困らないようにという
“善意”から生まれる言葉でしょう。
けれど、私自身、あるタイミングで「ちょっと待ってほしい」と感じました。
大人たちの配慮やアドバイスが、
子どもの“自分で考え、動く力”を奪っているかもしれない
──そんな疑問が芽生えたのです。
保育者は無意識に「弱い人=子どもたち」をケアする
「強い人(ケアする側)」になりがちです。
つまり、非対称性を有する関係性になってしまいがちなんですよね。
だけど、保育者も「一人の弱い人間(Be)」としてそこに居る
という視点も大切かもしれないと思ったのです。
今日は
「Beの保育」とは何か?
を考えつつ、なぜDoや直接的ケアでは不十分か、
どうすれば子どもの可能性を信じられるか、私なりの現在の考えをシェアしてみます。
なお、Beの保育とは
・保育者の在り様を大切にする保育
・環境から(間接的に)園児にアプローチする保育
というイメージで使っています。
<なぜ「すぐのアドバイス」は危ういのか?>
子どもを見守る職業としての保育者には、
日々の関わりのなかで “すぐ対応する回路” が身体化しています。
転ぶ → 支える
汗だくで遊ぶ→水を飲ませる・休ませる
体調不良 → 病院へ促す
この回路があるから、子どもは安心できるし、守られている。
しかし、同時に次のような問題が起きやすいと感じます。
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・あらゆる相手を「助けてもらう対象」「支えられるべき弱さの存在」として見てしまう。
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・相手の判断力や回復力、自ら動く力を軽んじるようになる。
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・「これをすればいい/こうすべき」という大人の価値観で、
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相手の身体性や感覚を押さえつけてしまう。
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・結果として、子どもの“自分で考え、動く力”をそぎ落としてしまう。
私自身、体調を崩したとき、
不要なアドバイスを受けて、ちょっとした違和感を覚えました。
保育者は子どもの世界を守る仕事だが、
「子どもじゃない大人にも同じ回路を使うんやなぁ?」
という違和感でした。
<「Be」の保育とは──ただ存在を受けとめ、まわりを整えるという選択>
では、どうすればこの違和感と折り合いをつけられるのか。
私が提示したいのは、Do(行為)とBe(存在)を両立した保育 という視点です。
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「保育者が直接園児に何をするか」だけではなく、「環境を整える」ことも大切
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「助ける/直す」だけではなく、「ただそばにいる」「待つ/見届ける」ことも大切
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「指導」「ケア」だけではなく、「関係性の中にともにいる・在る」ことも大切
この保育観は、決してDoを否定しているわけではなく、
子どもの可能性を守るための構え(スタンス)であり、
どちらも大事にしたいということです。
<なぜこの視点が必要なのか?──「育ち」の質を守るために>
子どもは、生きている環境(=まわり;surroundings)との出会いから育ちをつくります。
遊び、移動、友だちとの関わり――どれもまわりと身体の相互作用の結果です。
もし大人の過剰な介入やアドバイスで「まわりとの出会い」を塗り替えてしまえば、
子どもの育ちは「自分で設計する機会」を失います。
それは単なる安全の確保ではなく、
成長の芽を摘むことにつながる可能性があります。
「Be の保育の見直し」は、子どもの主体性と可能性を守るための、
大人側の態度の変容ではないかと私は思っています。
<ちょっとしたワークを>
次の問いを、心の片隅に置いてみてください。
「子どもや人に対して、“すぐに何かをしてあげる”前に、
まず“そばにいる”もしくは“環境からアプローチする”ことで何が起こるだろうか?」
答えは人それぞれだと思います。
でも、その問いを置くことで、保育や関わり方は変わり始めると思います。
<終わりに>
保育現場には安全性とケアの要求がたくさんあるように見えるかもしれません。
でも、実際には子どもたちは自分のことを自分でできます。
私たちは「すぐにケアをするのではなく、観察をし、備える」
という選択も常に心に置いておく必要があるのです。
Be の保育は派手でも華やかではない。
でも、子どもたちの育ちの根っこを支える、
静かで揺るがない力になり得ます。
この視点が少しでも届けば――そう願っています。