「こどもに触れる」を考える

 

 

こどもに触れるということを考えてみたい。私たちはややもすると何の気なしに子どもに触れている。「ちょっとこっちに来て」、「ちょっと待って」などと言いながら、こどもに触れている。このことは考える必要のない,他愛のないことなのだろうか.もしくは,何らかの問題を孕んでいるのだろうか.私は保育という営みの中で,考えるべき問題を孕んだ行為だと認識している.

 

そう考える理由としての最大のものは触れることは身体的な拘束,つまり強制になるからである.「こっちに来て」とこどもの身体に触れ,方向づける行為はお願いではない.疑いようもなく拘束であり,強制である.もちろん,大人にそんな意図はないだろうが,意図があるかないかに関わらず,こどもの意思とは無関係に身体を方向づけている段階で,その行為は強制だ.こどもは,大人のその行為から何を感じ取るのだろうか.

 

2つ目の理由はそこにある.さらにトリビアルな問題ではあるが,こどもは大人のその手から何かを感じ取る.考古学者のクリストファー・ティリーは石に触れるということを「わたしは石に触れ、石はわたしに触れる」と言った。人類学者のティム・インゴルドは触れるということを通して、私たちは世界に巻き込まれていくと言った。私たちがこどもに触れている時、こどもも私たちに触れている。こどもはそこで,私たちの何に触れ,どんな世界に巻き込まれているのだろうか.

 

こういう議論をすると,「愛着」という概念と絡んで,触れないことの弊害を懸念する人が現れる.そのこと自体は間違っていない.とすると,おそらく接触をいくつかのタイプに分けることが必要なのではないだろうか.まずは大きな括りとして,能動的接触と受動的接触に分けられるだろう.能動的接触は操作的接触と表現的接触に分けられる.操作的とは先ほども言及したような「こうしてほしい」というような時に用いられるいわゆる強制的な接触であり,表現的接触とは握手やハイタッチのような何かを伝えるための接触である.他にも分類はあるかもしれない.ここでお伝えしたいのは,このように分けて考えて考えた時に,いま自分が行った接触はどれにあたるのだろうか?を考えることである.子どもに触れるということに,少しだけ自覚的であってもらいたいと願っている.

 

 

保育者支援ネットワーク「保育のみかた」運営責任者

博士(教育学)

保育コンサルタント

園庭づくりコーディネーター

[著書]

『ワクワクドキドキ園庭づくり』(ぎょうせい)

『遊びの復権』(共著)(おうみ学術出版会)

保育者の「相互支援」と「学び合い」の場

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