何をどう理解する?
(*音声解説は最下部にあります)
幼児教育・保育の世界では「幼児の理解」と「保育の評価」が最重要課題の1つであることは疑いようのないことだろう。幼稚園教育要領・保育所保育指針・幼保連携型認定こども園教育・保育要領(以下、三要領とする)のいずれにおいても「評価」という言葉が出てきている。今日はこのことについて考えてみたい。
(1)きっかけ
ある時の園内研で、ちょっと誤解を招くような話をしてしまったことがある。「保育の人間理解は狭い」というようなことを言ったのだ。伝えたかったことは「現場にいる先生方は実に豊かに子どもたちのことを見ている」ということだった。ある意味真逆のこと言ってるやんとツッコまれそうだが。
現場の先生たちの子ども理解の中には、エピソードや事例、家族を中心とした子どもたちを取り巻く環境、心身の育ち、発達の凸凹ほか実に多くの要因が複雑に含まれている。ところが、文字化してしまうと、ありきたりな表現になってしまったり、どこにでもあるようなテンプレなストーリーになってしまいやすい。そして、現象や構造の複雑さが故に、最終的に「すごいよね」とか「よかったね」という言葉に帰結されてしまっているということをお伝えしたかったのだ。それが冒頭の実に雑な表現となってしまった。その後、言葉を繋いでその意図をお伝えしようと試みたが、伝わったかどうか実に心もとなかった。でも、私が懸念しているのは、「すごいよね」などの評価の言葉で終わると、それ以上園児の理解深まらないことである。さらには、自らの保育の評価にもつながらないことを危惧する。この問題意識は是非とも共有しておきたい。
(2)何を「評価」するのか?
さて、その後、別の場所で、ある先生と話をしている中で、実はそんなことがあって…と反省の弁をカミングアウトすると、『でも実際に「すごいよね」とか「よかったね」で会話を終えることは多いし、そこから深まらないということはその通りだと思う』ということを言っていただいた。それについての話を、その先生と諸々している最中に、私自身は子どもがすごいとか、良いとかいうこと自体がちょっと違っていて、それはそれとして「価値判断をせずに受け止める」ことが大切だろうという話をした。そうすると『「子どもの理解と評価」ということを口を酸っぱく言われてきたから、そういう思考回路になっちゃうのかなぁ?』という問題提起をしていただいた。
そこで我々の話は「評価すべきは何なのか?」という方向へ向かった。いや、待てよと。評価するべきは自らの保育であって、子どもではないはず。でも、子どもを理解する際に評価的な視点を持ってしまうのもまた事実。もっと平たく言えば「良い」「良くない」ということも思っている。それって評価だよね?先生たちは子どもを「評価」するのだろうか?それとも他の何かなのだろうか?
(3)三要領ではどのように書かれているか?
このような問題意識を持って三要領をあらためて読み返してみると、面白いことに気づく。いや、皆さんはとっくにご存知か…(笑)。実は、評価という言葉は「計画」とセットで書かれている。例えば、幼稚園指導要領では第3章第1の1. 一般的な留意事項(2)の箇所で「その 際、幼児の実態及び幼児を取り巻く状況の変化などに即して指導の過程についての反省や評価を適切に行い、常に指導計画の改善を図ること。」と書かれている。実は幼稚園指導要領では評価という言葉はここでしか出てこない。保育所保育指針では、評価に関する項目がある。「3(4)保育内容等の評価」という中で明確に評価対象が書かれている。幼保連携型認定こども園指導・保育要領でも第1章第2節で「2 指導計画の作成と園児の理解に基づいた評価」という項目がある。こうして見てくると、評価という言葉はやはり子どもに対して向けられているわけではなく、自分自身の保育に対する評価ということになる。もっと掘り下げていうならば、自らの「保育計画」に対しての評価をすることが大切にされているのである。
(4)どのくらい評価をしているのだろうか?
この問題は「保育の質」や「選ばれる園」を考える上でも極めて重要である。そういったことを先生方はその辺りをどのくらい意識できているだろうか?私が知りうる限りでは、まだまだ改善の余地がありそうである。評価というのは実に難しい。同じイベントを評価するにしても、添える物差しが違えば評価ができないこともある。またはプラスとマイナスが全く逆になることだってある。まずは子ども理解にとどまらず、自身の保育計画と照らし合わせて自分の保育を評価してみよう。その際、何を、どのように評価するのか?評価の仕方も非常に重要である。が、もうだいぶ長くなったので、今日はここまでにしようと思う。
『BGM ゆるカフェ〜アロハ・ハワイ』