教育の原罪

 

 

(0)前置き

 

すっかりご無沙汰しておりました。

入院しているという話ばかりで、退院の話を書かないままに

筆が途絶えてしまったので、ご心配をしてくださった方も

おられたかもしれません。

無事に退院して、自宅に戻っております。

しかし、なんと言いますか、気持ちが戻ってきません。

帰宅してからも、ほとんどパソコンに向かう気持ちにもなれずにおります。

 

本は読んでるし、研究のアイデアをノートに書いたりはしているのですが、

なんとなく気持ちが乗ってこないんです。

 

と言ってばかりもいられませんので、

今日はここ最近私が改めて意識し始めている

教育の罪

について、考えてみようと思います。

 

何もまとまらないままに書いていますし、

推敲もちゃんとしていません。

ラフ原稿を読むつもりで、皆さんにも推敲しながら読んでいただければと思います。

 

後から、全く違うことを言う可能性も含めてお読みいただければと思います。

 

(1)教育の原罪

 

私は学部こそ心理学でしたし、現在も心理学の学部に所属しておりますが、

大学院では修士も博士も教育学研究科に所属しておりました。

自分が何を専門とする学者かは自分でも分かりませんが、

幼児に限らず、教育に関心が高いことは自覚しております。

 

その教育に関われば関わるほどに

教育の原罪を嫌でも意識させられることになってしまいます。

病を得てからは、特にその傾向が強くなった気がします。

 

 

教育の原罪…

 

それは「人を育てる」「人の成長を支える」ということです。

いや、その裏側にある「思い上がり」と言っても良いのかもしれません。

 

「育てる」「成長を支える」という言葉の中には

「良い方向へ」という意味が包含されています。

そのことが「教育」という営みが抱えているこの原罪だと痛切に感じるようになってきました。

 

私自身、今まで20年強の時間を教育に費やしていますが、

正直そこはあまり問わずにきました。

自分が信じている「良い方向」を心に秘めてやってきたと言っても良いかもしれません。

 

でも、入院以降、なぜか分かりませんが、

この原罪に改めて思いを致すことが多くなりました。

教育が抱えているこの罪を私はどう処理すれば良いのだろうか?

 

(2)何が良いことなのでしょうか?

 

人間にとって何が良いことなのか?

なんて分かりっこない。

例えば、学校教育では学校に適応していることを良しとしてきましたけど、

本当にそれが良いことなのか?

アインシュタインもエジソンも岡本太郎も

学校には全く適応できませんでした。

でも、学者としてアーティストとして、多くの人々に貢献したことを思えば、

学校に適応しなかったことは決して悪いことではなかったのかもしれない。

 

いや、でも本人たちは、そんな貢献よりも、

クラスメイトと仲良くできた方が良かったのかもしれない。

 

何が良いことなのか?

何が良くないことなのか?

 

誰にも分からないわけです。

 

昔は価値観が単一的だったので、それでもある程度の価値を信じて教育をしていたわけですが、

価値観が多様化しているこの社会にあって、

幼児教育は何をするべきなのか?

高等教育では何をするべきなのか?

正直、迷いしかないということに、

改めて直面してしまっている気がします。

 

(3)世界と出会う

 

それであっても、

幼児教育において私が大切だと思っていること、

幼児の発達環境を研究する中で大事だと思っていることがあります。

 

それは人生の最初期に

どれだけ世界と出会うことができるか?

ということです。

 

ここで言っている世界とは

world(世界)とかforeign countries(諸外国)のことではありません。

そうではなく

environment(環境・まわり)のことです。

 

environmentという言葉は訳語としては環境という言葉が充てられていますが、

実際には「包むもの」という意味です。

包むものということは、包まれるものがそこにはいるという意味を包含しています。

包まれているのは誰か?我々生体(自分で動くことができる生き物)のことです。

 

その私たちを包むものたちと出会うこと

幼児期に必要なことはそのことに尽きるのではないでしょうか。

先日も書きましたが、そこには人間も含まれるし、他の生命も含まれます。

 

毎日違うものと出会う必要があるわけでもなく、

毎日同じものと出会っても良いのだろうと思います。

その毎日だって、昨日と同じ1日ではないのですから…

 

(4)新たな地平へ

 

教育の罪を意識した上で、

それでも教育をしていくことは可能なのでしょうか?

皆さんはどう考えますか?

 

そんなことを考える以前に、

目の前に子どもや学生がいて、そこで営みがあるわけだから、

どうであれ共に暮らすしかない気もします。

 

明日からの講義を一生懸命にやり、

共に考える。

それしかないような気もしています。

 

でも、こういう、いわば青臭いかもしれないことを考えた後に見えてくる地平は

これまでとは違うものなのではないかという淡い期待を抱きながら、

新しい1週間を迎えようと思います。

保育者支援ネットワーク「保育のみかた」運営責任者

博士(教育学)

保育コンサルタント

園庭づくりコーディネーター

[著書]

『ワクワクドキドキ園庭づくり』(ぎょうせい)

『遊びの復権』(共著)(おうみ学術出版会)

保育者の「相互支援」と「学び合い」の場

〒524-0102 滋賀県 守山市 水保町1461-34 

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