5領域「環境」を考える

 

 

(1)環境はどこまでを指しますか?

 

今日は環境について考えてみたいと思います。

5領域でも「環境」というのがあります。

「環境を通じた保育」とも言われます。

幼児教育の先生方は環境に対する意識が非常に高い。

 

では、先生にとって環境とは何を指しますか?

 

「保育所保育指針」ではこんな感じで書かれています。

1.身近な環境に親しみ、自然と触れ合う中で様々な事象に興味や関心をもつ。
2.身近な環境に自分から関わり、発見を楽しんだり、考えたりし、それを生活に取り入れようとする。
3.身近な事象を見たり、考えたり、扱ったりする中で、物の性質や数量、文字などに対する感覚を豊かにする。

 

1.は自然環境

2. は周辺にある事物

3. は思考の対象、道具としての事物

 

という感じでしょうか?

 

ここで、1つの問題としたいのは「人」です。

これを環境の1つの要素として入れるのか、入れないのか?

という問題に直面します。

 

いわゆる5領域で考える環境には入らないということがわかりますが、

実際には園児にとって保育者は環境の1つです。

 

保育者はエージェンシー(*1)を持った存在ですから、そう考えるといわゆる事物とは特徴が違います。だけど、そう考えると虫や生き物もエージェンシーを持っていますから環境とは言えないことになる。問題はエージェンシーの有無ではなく、単に人間を特別扱いしたいという心もちの現れなのかもしれない。

 

(*1)

エージェンシーとは、自律性とか、能動性とか、主体性みたいな意味を包含した

性質のことを指します。日本語で当てはまる適当な語がないので、専門家はそのまま

エージェンシーと使うことが多いです。「自ら動くことができる性質」くらいに考えてください。

 

いずれにしても、その辺りの細かな定義は私にとってはあまり重要ではないと思えます。環境とは園児たちの周りにあるモノやいる人、全般を環境と呼んだ方が良いと考えること自体にそれほど大きな支障があるとは現時点では考えていません。

 

(2)環境は資源

 

環境とは何か?

と問われた時、私は「園児にとっての行為の資源」と定義しています。

そう考えたら、自分の周りにあるものは全て環境と位置付けられます。

園児たち(に限らず、あらゆる動植物)は、周りの環境に適応しながら生きるまさに、適応的な存在であるという特徴を持っています。

 

では、私たちは環境の何に適応しながら生きているのでしょうか?

 

 

ひとまずここでは環境を事物に限定して考えることにします。

 

ここで話をわかりやすくするために、1つのエピソードをご紹介します。これは、私が園庭づくりをコーディネートさせていただいたことがあるこども園で実際に起こったお話です。

 

先生方と協力して、手作りで小さな築山を作りました。

次の日、1歳児クラスの男の子がその築山に興味を示したのですが、

怖かったのか、登ることができずにいました。

それを側で見ていた2歳児クラスの女の子(仮称 めぐちゃんとしておきましょう)。

横から、恐る恐る築山登りにチャレンジ。

ものすごく小刻みなステップを踏んで、30秒くらいかけて50cmほどの高さの

小さな築山を完登しました。

 

登った後は降りなくてはいけません。

めぐちゃんにとってそこからの景色は初めての経験で、

達成感とともに、ちょっと怖そうにしていました。

近くにいる先生に「センセ〜」と声をかけていましたが、

「自分で降りてごらん」と先生は見守っています。

 

めぐちゃんはさっきよりもさらに小さなステップを踏みながら…

というよりはステップですらなく、足をズルズルとズラしながら、

1分ほどかけて降りていました。

 

1回登り降りができれば、「もうこの山は私のもの」です。

1度どこかに行ってしまっためぐちゃんでしたがすぐに戻ってきて、改めてチャレンジをしました。

次は「さっき克服した山」ですから、怖さはマシです。さっきの数倍早く登り、降りてきました。

 

3回目はお手のものです。

友達に「見ててね〜」と声をかけてから登りました。

その姿は新しい環境を手に入れた自信に満ち溢れていました。

新しく生まれ変わったくらいの輝いためぐちゃんがそこにいました。

 

その築山が持っていた大きさ、傾斜角度、砂の素材など、いろいろな要素が重なってめぐちゃんは「登れそう」と思ったのだと思います。ちょっと難しい言い方をするなら、めぐちゃんは築山に「登る」という行為の可能性を見出したのです。一方で、その前にやろうとしてやれなかった1歳児の男児にとって、それは「登れなさそう」な山だった、つまり行為の可能性を見出せなかったのでした。

 

このように、環境は行為の資源であり、資源とは行為の可能性の源という意味なのです。めぐちゃんはその築山があったからこそチャレンジをして山を克服し、その高さからの眺めを自分の力で手に入れたのでした。

 

(3)環境が備えている可能性は無限

 

エージェンシーを持った園児とその周りにある事物が備えた可能性

この両者の相互関係のことをアフォーダンスと知覚心理学者のギブソンが喝破しました。

この世紀の発見は、心理学の世界でもあまりちゃんと理解されていませんが、幼児教育にとってはものすごく重要な考え方です。

 

先ほどの1歳児クラスの男児とめぐちゃんでは、持っている能力には差があるはずです。どちらの園児も自分の能力を感覚的にわかっている。自分に合った環境を感じ取ることができる。築山は男児にとっては「まだ時期尚早」であり、めぐちゃんにとっては「チャレンジ可能」な環境だったわけです。

 

このエージェンシーと環境が有する資源たる行為の可能性の関係性

この関係性があることを理解していれば、大人が計画を立てて設定保育をする必要はないんです。

 

多様な環境に触れる機会があれば、園児が自分にとって必要な何かを手にします。

それが何かは出会ってみないと誰にもわからない。

しかも、何を見つけ出すのかも誰にもわかりません。

 

(4)子どもは天才なのか?

 

「子どもは天才」という言説を時々目にします。

大人が思いもしなかった道具の活用方法を見つけ出したり、

誰も思いつかなかった何かを発見したりするからです。

 

それは基本的には大人が持っている「常識」を子どもたちが持っていないから。

カナヅチはこうやって使うもの

紙はこうやって扱うもの

という常識(当たり前)を持っていないからこそ、

カナヅチでものを取ろうとするかもしれないし、

紙を使って新しい遊びを生み出すかもしれません。

でも、カナヅチや紙にはそういう可能性が初めからあったわけです。

 

確かに天才もいるかもしれないですし、単なる偶然もある。

それを見つけた子どもの素朴な目を「天才」と言って片付けてしまうのはもったいない。

その発見を一緒に楽しみ、さらに遊びを発展させることはできないでしょうか?

自分達も子どもと同じような素朴な目を持って遊ぶ時間を作れないでしょうか?

 

環境を資源と捉えていれば、そこで「天才」と片付けないことができる気がします。

 

(5)環境を通した保育とは?

 

どんな保育をしていようとも、子どもは環境との交流の中にいます。

その環境が豊かであるか?貧相であるか?

その違いだけです。

 

だからこそ、豊かな環境の中で子どもと保育者が共に暮らす。

素朴な目をもって、一緒に発見したり、驚いたりしながら暮らす。

そんな日々を作ることが大切です。

 

環境を通しての保育とは、決して先生が誘導するような保育ではないと思います。

豊かな可能性(そこにはある程度の危険も含まれます)を持った環境

多様な自然(動植物・土・水・火・空気etc)と共にある環境

をいかに用意するか?

子どもたちが日々その環境と共に遊び続けることができる環境を作る。

保育者は子どもたちの発見・輝きをその中に見出して、

横並びで一緒についていくことができるか?

 

これこそが環境を通した保育、いや環境と共にある保育なのではないでしょうか?

保育者支援ネットワーク「保育のみかた」運営責任者

博士(教育学)

保育コンサルタント

園庭づくりコーディネーター

[著書]

『ワクワクドキドキ園庭づくり』(ぎょうせい)

『遊びの復権』(共著)(おうみ学術出版会)

保育者の「相互支援」と「学び合い」の場

〒524-0102 滋賀県 守山市 水保町1461-34 

Mail: daihyo@studioflap.or.jp