昨日の講演会より〜園庭づくり

 

 

昨日はある公立幼稚園で園庭づくりに関する講演をさせていただきた。ちょっと勘違いをしていて、園内研だと思って訪問したので、お客さんがずらっと並んでいた時には少々慌てたが…ちょっと前に公園で使ったスライドを援用して、ことなきを得た。

 

内容は園庭づくりについて。ここではいくつかのポイントをシェアしつつ、昨日はお話ししなかったようなことも付け加えておこうと思う。私がお話ししたポイントは3つ。1)アフォーダンスという概念を理解する、2)大人は子どもの経験を邪魔する可能性のある存在、3)園庭の質を検討する際の指標として「動詞」の数をカウントする、というこの3つである。

 

まず第1のアフォーダンスというのはここでも何度かお伝えしている、知覚心理学者ギブソンが提起した概念である。環境(まわり)が生体に与える行為の可能性のことを指している。私たちはまわりにある事物が与えてくれる可能性を読み取り、それを活用している。子どもに対して倫理的に振る舞おうとするのであれば、その可能性と出会う可能性を大人が奪ってはいけない。私たちはあらゆるアフォーダンスを感知することはできない。新しい発見はいつの世にも起こりうる。多くの大人は大いなる勘違いをしているから、子どもは何も知らない存在で、大人は知っている存在であると考える。だが、子どもはそういう常識がないからこそ、素朴な目でまわりを見ている。大人では気づかないアフォーダンスと出会うことができる。「そんなことしないの」「汚れるからやめて」と言う大人はその可能性を潰している。遊び込める子どもというのは、そういう「探索」ができる子どもたちだ。そうやって、世界は可能性に満ちているということを子ども達は生まれた時から知っている。大人たちはそのことをもう忘れてしまっている。そのことに気づけば、子どもの行為を邪魔することはできないはずだが、99%の大人はそのことには気づけない。あ、2つ目についても書いてしまっている(笑)

 

さて、3つ目に話を移そう。自然然り、多くの事物があること然り。園庭は保育室以上にアフォーダンスを配置する可能性がある場所である。豊かな園庭をどう判定するかは非常に難しいと思うが、1つは豊かなアフォーダンスがある場所かどうか?ということが判断基準になるのかもしれない。もちろん、あらゆるアフォーダンスを判定することは不可能であるのだが、子どもがその幾つを具現化しているか、つまり、園庭に幾つの動詞を確認できるかによって、園庭の豊かさの1つの指標にはなるだろう。

「歩く」「走る」「スキップをする」など移動系の動きはほとんどの園庭で可能だろう。それが可能であれば、「打つ」「運ぶ」「転がす」「投げる」「蹴る」なども可能かもしれない。ただ、そのためには道具が必要になる。「打つ」のためには、打つものと打たれるものが必要になる。バットとボールかもしれないし、かなづちとくぎかもしれない。そういう操作的な行為(動詞)が可能な道具が園庭にどのくらいあるだろうか?

 

あとは、見逃されやすいのは「姿勢制御の動き」である。姿勢制御の動きとは、「立つ」「起きる」「回る」「乗る」「浮く」などである。一般的に多くの園庭にある「築山」などは斜面に立つという意味でバランスが必要になる環境かもしれない。私の知っている園庭では、夏場になると園庭の一部分に大きな池を手作りし、そこにバナナボートなどを浮かべて遊んでいる。これは「乗る」でもあるし、「浮く」でもある。こういう複合的な行為が可能になると、その園庭はスペシャルな園庭と言っても過言ではない。

 

保育実践において、園庭はあくまでも手段である。子どもたちにとって園にいる時間が幸せであればそれで良いし、その中に育ちの萌芽があればなお良い。園庭はその可能性を幾重にも埋め込める包容力がある。だから園庭は面白い。上記のような視点から園庭のことを考えていくことで、その可能性は無限に見えてくると私は考えている。

保育者支援ネットワーク「保育のみかた」運営責任者

博士(教育学)

保育コンサルタント

園庭づくりコーディネーター

[著書]

『ワクワクドキドキ園庭づくり』(ぎょうせい)

『遊びの復権』(共著)(おうみ学術出版会)

保育者の「相互支援」と「学び合い」の場

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