改めて「子どもの人権」を考える

 

 

 

(1)はじめに

 

いまの時期に園で起こっている出来事を考えると、それに寄せて私が興味深いお話を展開することは不可能のように思える。劇遊びと呼ばれるものにも全く明るくないし、卒園式に向けての提案があるわけでもない。相変わらず園庭のこととか、遊びのことばかりになってしまう。そんな時は無理に皆さんのご期待に寄せずに、自分の書きたいこと、話したいことをさらけ出しておこうと思った。決してニーズを無視しているわけではなく、私の限界ということでご容赦いただきたい。

 

ということで、今日も「主権者としての子ども」の話を書かせていただこうと思う。

 

(2)学校の位置づけ

 

その前に前提として学校園の位置付けについておさらいしておきたい。ご存知ない方も少なくないかと思うが、かつて子どもは「小さな大人」として扱われ、使えない奴は殺されても仕方ないという時代があった。子殺し(嬰児殺)は古代の社会ではある程度容認されていたこともあるそうだ。近代になり、子どもを守るという意図で学校園ができた。つまり、児童福祉の施設であったと言える。親だけでは子どもは育てられないから、社会が親から子どもを取り上げて、社会で育てると宣言をした側面があるということだ。

 

その後、学校が一般化し、社会が農村社会から工業社会、大量生産社会へとなる中で、社会に有用な人材を育てることが学校の役割となり、そこで「教育」という営みが前面化するようになった。ちなみに、それまでは「形成」という言葉が教育と並んで存在していた(高橋、2014)。「人格形成」などで使われるあの形成である。これは自然な生活の中で、いろいろな経験を重ねる中で能力・知識・人間性が自然と身についてくるという指導の一形態である。現代では「アクティブ・ラーニング」などと言われ、教育形態の1つと言っているが、とっくの昔にそういう形の「成長支援」方法が存在していたということになる。「教育」だけが成長支援の方法ではない。

 

さて、教育に話を戻す。いつの間にか社会に有用な人材を育てる場所となった学校では、何が有用な人材か、どんな知識・能力が必要か、すなわち何を学ばなくてはいけないかを教師が決めていた。当然のことながら、戦争を推進するためにも学校は利用された。運動会などはその最たる例の1つだろう。戦後、高度経済成長に際しては、日本の高い識字率を支えたのも学校だ。私が幼稚園に入ったのが1978年、小学校入学が1980年である。小学校でのいじめ、登校拒否が話題になり始めたのは、私が小学校から中学校に通っている頃だったのではないかと認識している。

 

21世紀に入り、大量生産・自動化の世の中から「情報化」の世の中になった。あらゆるものが情報化し、AIやビッグデータが世界の成り立ちを変えようとしている。個人のニーズに合わせた生活スタイルの構築、多様な人間がそのままに生きることが許される社会の創造を目指した、大変複雑な世の中をいかに形作っていくかということが現代社会のタスクではないかと私は受け止めている。「主権者としての子ども」を認めようとする動きも、こういう動きに合わせる形で認知されるようになってきた。

 

(3)子どもの権利

 

子どもの権利条約は実は1989年に国連で採択されている。その条約を日本が批准したのは1994年。なんとその順番は158番目(現時点で、締約している国・地域は196)と非常に遅かった。それだけ子どもの権利に対する意識は低いと言わざるを得ない。批准後、国内の各自治体や地域で条例を策定する動きも生まれてきた。私が住む滋賀県でも2006年に条例を策定して、これまでも取り組みを進めている。そんな中、滋賀県が新たに条例を作り直し、より現代社会に合った形で「主権者としての子ども」を明確に位置づけ、単に守られる存在ではなく、共に社会を構成するメンバーとして位置付けようとしている。

 

子どもの権利条約は大きく4つの権利を保障する。生きる権利、育つ権利、守られる権利、参加する権利である。私の個人的な感覚ではあるが、我が国において1つ目と3つ目はかなり意識されてきている気がする。ところが、2つ目と4つ目は非常に薄い。「育つ権利」は育てられる権利ではなく、(自ら)育つ権利であることに意識が行っていない。何を、どのように学ぶかを子どもが決めるという方法はいまだに希薄である。ある程度の選択肢と選択権が移譲されている感じはあるが、年齢が下がるほどに大人が決めている傾向がある。就学前教育もこの点は真摯に向き合いたい課題である。

 

4つ目に至っては、古くからの意識が根強く残るこの国では、全くと言って良いほど認識されていない。私が現時点で考えていることの1つが、ルール(校則など)を一緒に考えることである。保育の現場では「お約束」などと呼ばれているクラス内のルールもこれにあたる。実際にはお約束とは名ばかりで、先生から与えられたものであり、子どもたちが同意したかどうかは正直問われていない。そこで重要なのは「相談すること」である。子どもと一緒に考え、子どもが提案したことに対して、それをルールとしたら誰か困る人はいないかな?そのルールをみんなで守ることができるだろうか?などを話し合うことが求められているのではないだろうか。

 

(4)終わりに

 

「権利」という言葉に対して嫌悪感を抱く人が少なくない。権利は主張されることが多く、その多くが悪用されてきた歴史がこの国にはあるからだ。客だから何をしても良い(=権利がある)などがその最たる例だ。権利というのは当事者が主張をし始めるとややこしいことになる。私もアメリカに住んでいた頃、権利の裏側には義務が張り付いているということを実感した。ところが、日本で「権利」と呼ばれるものは、英語では“rights”と呼ばれると思っているが、“entitlement”という名詞もあるし、“claim”という動詞もある。日本で「権利を主張する」のはclaimであり、そこには正誤の判断がついてまわる。客としての権利を主張する際、その権利は客にあるのか?ないのか?という正誤判断をする必要がある。長蛇の列に並んだが自分の前で商品が売り切れになり、これだけ並んだんだから購入する権利があるなどと捲し立てる人のclaimは正誤判断の対象となるのではないか。

 

一方で、rightsは人が持って生まれた“守られるべきもの”としての権利である。それは自分だけでなく、他者に向けられていなければならない。つまり、客としてクレームを言う際、クレームを言っている人の人権は守られているのか?という感覚に根付いていないといけないということである。そんなことを考えながら、「主権者としての子ども」に想いを馳せ、主張する権利ではなく、他者の権利・人権を大切に考える習慣を身に付けたいものである。

 

保育者支援ネットワーク「保育のみかた」運営責任者

博士(教育学)

保育コンサルタント

園庭づくりコーディネーター

[著書]

『ワクワクドキドキ園庭づくり』(ぎょうせい)

『遊びの復権』(共著)(おうみ学術出版会)

保育者の「相互支援」と「学び合い」の場

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