前回、現代社会が「経済」を一種の宗教のように信じているのではないか、というお話をしました。今回は、その「経済教」が、もう一つの現代特有の発想と結びついたときに何が起こるかを考えてみたいと思います。そのもう一つの発想とは、子どもを「最適化されるべき対象」として見る見方です。
少し抽象的な言い方なので、具体的に言い換えてみます。私たちは知らず知らずのうちに、子どもの育ちを「インプット」と「アウトプット」の関係で考えていないでしょうか。何を与えれば、何が伸びるか。どんな環境を用意すれば、どんな能力が育つか。月齢に応じて、どんな刺激が必要か。この発想自体は、ある程度は当然のものです。子どもにとって良い環境を用意したいと願うのは、保育者にとっても保護者にとっても自然なことです。問題は、この発想が極端に強くなったときに何が起こるか、です。
私は大学で保育者を目指す学生たちと向き合っていますが、入学してきたばかりの学生たちと話していると、ある共通の感覚があることに気づきます。自分が大人として、子どもを正しく導く位置にいる(いなければならない・そうなるために勉強している)という感覚です。学生たちは口々に「子どもにこういう経験をさせたい」とか「こうやって育ってほしい」、「こうするべき」と語ります。これはもちろん良きこととして考えているんです。彼ら・彼女らの純粋な善意であり、子どもたちのために保育者を目指していると言って良いと私は感じています。
しかし、よく聞いていると、その語り方には「子どもは未完成の存在で、大人が正しく介入することで完成される」という暗黙の前提があります。あえて挑発的な言い方をすれば、自分が神様の位置にいて、子どもを最適化してあげるという感覚すら感じてしまうこともあります。これは決して特定の学生の問題ではありません。彼らが特別おかしいわけではなく、現代社会で育った若者の多くが、この感覚を自然に身につけてしまうのです。なぜなら、彼ら自身がそうやって育てられてきたからです。「○歳までにこれができるように」「将来のためにこの習い事を」と、ずっと最適化される対象として育ってきた人たちが、今度は自分が大人の側に立ったとき、同じ眼差しを子どもに向けるのは、ある意味で当然のことです。学びの中で、私はこの感覚を少しずつ崩していく仕事をしています。私たちにとって子どもは「分からない存在」であること。最適化できると思った瞬間に、子どもの本当の姿は見えなくなること。観察すればするほど、子どもは自分の予想を超えていくこと。こうした感覚を、4年間かけて少しずつ育てていきます。しかし、保育を専門に学ばない多くの人は、この「最適化されるべき子ども」という見方を、問い直す機会のないまま大人になっていきます。これは保育者だけの問題ではなく、社会全体の問題です。
そして、ここで前回の「経済教」の話と結びつきます。「最適化されるべき子ども」という見方だけならば、まだ可能性は開かれています。何を「インプット」と考えるかは、いろいろありうるからです。家庭での対話、地域での経験、自由な時間、退屈な時間、近所の大人との関わり。これらはすべて子どもの育ちに重要な「インプット」になりうる。しかし、この発想に「経済教」が結合すると、インプットが市場で買えるサービスに回収されていきます。なぜなら、経済言語は市場で測定できるものしか視野に入れないからです。お母さんと丁寧に話す時間や、近所のおじさんに釣りを教えてもらう経験は、経済の指標では捉えられません。捉えられないものは、議論から脱落していきます。
その結果、「子どもの育ちに必要なもの=スポーツ教室・習い事・教材・体験プログラム」という等式が、暗黙のうちに成立してしまいます。そしてこの等式が成立した世界では、「子どものスポーツ経験は親の経済格差で決まる」という命題は、論理的に正しい命題になります。
でも、立ち止まって考えてみてください。「スポーツ経験はお金で買うもの」という前提自体が、いつ、どこで決まったのでしょうか。かつて、子どもは近所の路地や原っぱで自然に身体を動かしていました。近所の年上の子に教わって自転車に乗れるようになり、神社の境内で鬼ごっこをし、川で泳ぎを覚えました。そこには月謝も用具代もありませんでした。「スポーツ経験」と呼ぶ必要すらない、生活の中の身体経験がありました。
それがいつしか、子どもの身体経験は「サービスとして提供されるもの」になりました。そしてサービスである以上、お金で買うものになり、お金がある家庭とない家庭で差が出るのは当然、ということになりました。問題は、こうした構造的な変化が見えなくなっていることです。新聞記事は「経済格差で経験格差が生まれる」と書きますが、「なぜ子どもの経験がお金で買うものになったのか」までは問いません。問題は格差そのものではなく、格差として現れる手前の、社会の構造の方にあるのではないでしょうか。「経済教」と「最適化されるべき子ども」という見方。この二つが手を組んだとき、私たちは子どもの育ちを、商品の生産工程のように見てしまう。これは、現代の子育てが抱える深い問題の一つだと、私は思っています。
では、私たちはどうすればよいのでしょうか。次回は、この状況の中で大切にしたいものについて、もう少し希望につながる方向で考えてみたいと思います。
