ここまで二回にわたって、「経済教」という現代の信仰、そしてそれが「最適化されるべき子ども」という見方と結びついて生んでいる問題について書いてきました。今回は、この状況の中で私たちが大切にしたいものは何か、を考えてみたいと思います。
少し前のことですが、私は日曜日の朝に大津市の皇子山運動公園を通りかかりました。そこでは何面ものグラウンドで草野球が行われていました。審判もきちんと立っていて、大人たちが真剣に試合をしている。そして周りでは、選手の子どもたちや奥さんたちが、観戦しているのか一緒に遊んでいるのか分からない様子で、思い思いに時間を過ごしている。とても良い雰囲気でした。
この風景を、経済の言葉で説明することは難しい。彼らはプロを目指しているわけではありません。健康のためという目的に純化されているわけでもない(試合の後にビールを飲んだりするでしょう)。観客から収益を上げるわけでも、テレビで放映されるわけでも、記録が残るわけでもない。それでも、毎週日曜日に集まって、本気で野球をして、家族が見守る。経済の言語からすれば、これは「無駄」かもしれません。しかし、私には、ここに何か大切なものが残っているように思えました。スポーツがすっかり経済の文脈に巻き込まれてしまった現代において、草野球は不思議な存在です。プロ野球やオリンピックのスポーツとは違う、もっと地域に根ざした、もっと生活に近いスポーツの姿が、ここには残っている。子どもたちはそこで、父親が真剣に何かに取り組む姿を見ます。大人たちと自然に交わります。自分も少しグローブを借りて遊んでみるかもしれません。これは「子ども向けに用意された経験」では決して得られないものです。
同じことが、アートにも言えるのではないかと、私は考えています。私はアート鑑賞が好きで、絵画や彫刻、クラシック音楽、民藝などを楽しんでいます。これらの世界も、商業化されている面はあります。現代美術市場は巨大ですし、有名な美術館は観光産業の一部になっています。それでも、アートには経済言語に翻訳しきれない核が残っているように感じます。モネの絵の前で立ち尽くす経験を、GDPに換算することはできません。バッハのフーガを聴いて感動する経験を、効用関数で表現することはできません。それでも、その経験は確かに私たちの中に何かを残します。「役に立たない」ことが、むしろ価値である。そういう領域が、現代社会において、まだアートには残っています。
民藝についてはさらに興味深いことがあります。柳宗悦が始めた民藝運動は、無名の職人がつくる、生活の中で使われる日用品の中に美を見出しました。それは効率的な大量生産では生まれない美です。手の記憶、地域の素材、共同体の生活——こうしたものが集まって、初めて生まれる美。これも経済の言語では捉えられない価値です。草野球、アート、民藝。一見バラバラに見えるこれらに共通するのは、経済の言語では拾えない価値を、別の形で保ち続けているということです。
そして、保育の現場もまた、こうした「数字にならないもの」を扱う場所ではないかと、私は思っています。子どもが園庭で泥だらけになって遊んでいる時間。それは何の数字も生みません。どんなテストの点数にもつながりません。経済の言語からすれば「無駄」かもしれません。しかし、その時間の中で子どもが経験していることは、後の人生のすべてを支える土台になります。それは数値化できないだけで、ないわけではない。
「無駄こそが必要なんです」と保育者が語るとき、相手にうまく伝わらないことがあります。「どうしてですか」と問われて、説明に窮することもあります。経済の言葉で答えようとすると、「将来の創造性のために」「非認知能力の育成のために」と翻訳せざるを得ず、翻訳した途端に、本当に言いたかったことが失われてしまう。これは私たち保育者の言葉が痩せているからではありません。経済言語の支配が強すぎて、別の言語が通じにくくなっているからです。
しかし、歴史を振り返れば、どんなに強力に見えた支配的な言語も、永遠に支配的であり続けたことはありません。中世カトリックの言葉が西欧で全てを語っていた時代、その言葉を相対化することはほぼ不可能でした。それでも、長い時間をかけて、別の言語が育っていきました。「経済教」もまた、永続するとは限りません。
これからの時代、AIがますます社会を変えていくと言われています。AIは多くの仕事を代替するでしょう。そのとき、人間とは何か、人間の価値とは何か、という問いが新しく立ち上がります。そこで浮上してくるのは、おそらく身体性であり、経験の質であり、数値化できない人間的なものだと、私は思います。
草野球で同じグラウンドに身体を置いて時間を共有すること。アートの前で立ち尽くすこと。子どもが園庭で何の意味もない遊びに没頭していること。これらはすべて、AIには代替できない、身体を持った人間にしか経験できないことです。「経済教」が支配する時代において、保育の現場はとても重要な位置にあると思います。なぜなら、保育の現場こそが、数字にならないものを子どもたちに保障する場所だからです。子どもが何の目的もなく遊ぶ時間を保障すること、観察を通じて子ども一人ひとりを見つめること、効率では測れない関わりを大切にすること。これらはすべて、経済言語への静かな抵抗であり、別の言語を保ち続ける営みです。
私たち保育者・保護者がしている仕事は、目に見える成果としては小さく見えるかもしれません。しかし、私たちは子どもたちの中に、経済言語に翻訳されない経験の記憶を、確かに植え付けているのです。その記憶が、いつか彼らが大人になったとき、「経済教」を相対化する小さな種になるかもしれない。
建築家の青木淳氏が『原っぱと遊園地』という言葉で表現しようとしたことも実は似ているのかもしれません。数字で表せないものを大切にすること。それは、これからの時代を生きるすべての人にとって、決定的に重要なことだと私は信じています。
