第1回 暑いと言われると、暑くなるのでは?

 

 

園庭にアラートの知らせが届く。

ついさっきまで砂場で水を運んでいた子どもたちが、

保育者の「今日は暑いから、お部屋に入ろうね」のひと声で、

建物の中へ消えていく。

 

エアコンの効いた部屋で、子どもたちはおとなしくブロックで遊ぶ。

確かに、今日の安全は守られた。誰も倒れなかった。

だが、私はこの光景の前で、いつも小さな引っかかりを覚える…

 

今日は、その引っかかりの正体を、皆さんと一緒に考えてみたいんです。

 

最初にお断りしておくと、私は「暑い日でも構わず外で遊ばせろ」と言いたいのではありません。

本当に危険な日ってあります。その判断はもちろん大切です。

ただ、その手前で、私たちがいつのまにか共有してしまっている、

ある「前提」について、立ち止まって考えてみたいのです。

 

暑さは「避けるもの」という前提です。

 

この2~3年で、暑さはすっかり敵になりました。

思い出してみてください。

私たちが子どもだった頃、夏でも当たり前のように外にいました。

汗だくになって、喉が渇いたら水道の水をがぶ飲みして、

木陰でひと息ついて、また駆け出していく。

暑さは、夏という季節の、ただの季節でした。

避けるとか避けないとか、そんなことを考える対象ですらなかった。

生活の一部でしたから。

 

じゃ、今は?

「暑い」という言葉は、いつのまにか「危険」とほぼ同義になりました。

テレビをつければ「危険な暑さ」「命に関わる暑さ」という言葉が垂れ流されています。

私たちは朝、外に出て肌で暑さを感じるより先に、

数字と言葉で「今日は暑い=危ない」と言われてから外に出る。

 

私たちの体というのは、思いのほか言葉に左右されます。

「暑い暑い」と繰り返し言われていると、

本当はそれほどでもない日でも、なんだか暑い気がしてくる。

「暑さ」が前景化(前に出てきて、感じやすくなる)するんです。

 

実際、先日車に乗っていて、我が家は窓を全開にしていました。

外の空気の方が冷たいので、窓を開けていれば

十分に耐えられる暑さでした。

でも、我が家の車以外に車を開けている車は1台もありませんでした。

エアコンを使っているのでしょう。

確かに温度計は30℃はあったかもしれませんが、

梅雨時などの30℃とは全く意味が違いました。

正直、窓を開けていたら、私はほとんど汗もかきませんでした。

 

数字ばかりを信じて、それを根拠にしていると、

自分の体の声を聞く機会そのものが、少しずつ奪われるんです。

これは、考えてみると不思議なことです。

私たちは子どもの安全を守ろうとして、暑さから遠ざけている。

けれどその過程で、子どもが「自分はいま暑いのか、平気なのか」を自分で感じ取り、判断する力

——いわば、自分の体と対話する力——

を育てる機会を、知らず知らずのうちに減らしているのかもしれない。

 

子どもが夢中で何かに取り組んでいると、かなりの暑さでも案外平気です。

それが危ないと言う人もありますが、実際に子ども達を見ていると、

案外身体の言うことを聴いています。

ちゃんと時々日陰に行っています。

 

このように、私の感覚では、

暑さの感じ方は、気温という数字だけで決まるものではないと思えるのです。

私たちがその暑さをどう意味づけているかに、ずいぶん影響されているのです。

 

子どもは、大人の不安を学習します。

そして、子どもたちはこの大人の構えを、驚くほど敏感に学び取ります。

「暑いから外はやめようね」と毎日言われ続けた子は、

やがて自分の体に「暑いけど、まだ大丈夫かな」と問いかける前に、

「暑い=外に出てはいけない」という公式を覚えてしまう。

 

子どもを守るつもりでやっていることが、子どもの育ちを排除する方向に働いて

しまっているのではないでしょうか?

 

もちろん、これは保育者や保護者の責任ではありません。

むしろ、そうせざるを得ない「空気」が、社会の側に出来上がってしまっている。

 

果たして、私たちはこの状況を放っておいて良いのでしょうか?

次回以降も、引き続き考えてみたいと思います。

保育者支援ネットワーク「保育のみかた」運営責任者

博士(教育学)

保育コンサルタント

園庭づくりコーディネーター

[著書]

『ワクワクドキドキ園庭づくり』(ぎょうせい)

『遊びの復権』(共著)(おうみ学術出版会)

保育者と保護者の「相互支援」と「学び合い」の場

〒520-0026 滋賀県 大津市 桜野町2丁目4-7-517 

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