園庭にアラートの知らせが届く。
ついさっきまで砂場で水を運んでいた子どもたちが、
保育者の「今日は暑いから、お部屋に入ろうね」のひと声で、
建物の中へ消えていく。
エアコンの効いた部屋で、子どもたちはおとなしくブロックで遊ぶ。
確かに、今日の安全は守られた。誰も倒れなかった。
だが、私はこの光景の前で、いつも小さな引っかかりを覚える…
今日は、その引っかかりの正体を、皆さんと一緒に考えてみたいんです。
最初にお断りしておくと、私は「暑い日でも構わず外で遊ばせろ」と言いたいのではありません。
本当に危険な日ってあります。その判断はもちろん大切です。
ただ、その手前で、私たちがいつのまにか共有してしまっている、
ある「前提」について、立ち止まって考えてみたいのです。
暑さは「避けるもの」という前提です。
この2~3年で、暑さはすっかり敵になりました。
思い出してみてください。
私たちが子どもだった頃、夏でも当たり前のように外にいました。
汗だくになって、喉が渇いたら水道の水をがぶ飲みして、
木陰でひと息ついて、また駆け出していく。
暑さは、夏という季節の、ただの季節でした。
避けるとか避けないとか、そんなことを考える対象ですらなかった。
生活の一部でしたから。
じゃ、今は?
「暑い」という言葉は、いつのまにか「危険」とほぼ同義になりました。
テレビをつければ「危険な暑さ」「命に関わる暑さ」という言葉が垂れ流されています。
私たちは朝、外に出て肌で暑さを感じるより先に、
数字と言葉で「今日は暑い=危ない」と言われてから外に出る。
私たちの体というのは、思いのほか言葉に左右されます。
「暑い暑い」と繰り返し言われていると、
本当はそれほどでもない日でも、なんだか暑い気がしてくる。
「暑さ」が前景化(前に出てきて、感じやすくなる)するんです。
実際、先日車に乗っていて、我が家は窓を全開にしていました。
外の空気の方が冷たいので、窓を開けていれば
十分に耐えられる暑さでした。
でも、我が家の車以外に車を開けている車は1台もありませんでした。
エアコンを使っているのでしょう。
確かに温度計は30℃はあったかもしれませんが、
梅雨時などの30℃とは全く意味が違いました。
正直、窓を開けていたら、私はほとんど汗もかきませんでした。
数字ばかりを信じて、それを根拠にしていると、
自分の体の声を聞く機会そのものが、少しずつ奪われるんです。
これは、考えてみると不思議なことです。
私たちは子どもの安全を守ろうとして、暑さから遠ざけている。
けれどその過程で、子どもが「自分はいま暑いのか、平気なのか」を自分で感じ取り、判断する力
——いわば、自分の体と対話する力——
を育てる機会を、知らず知らずのうちに減らしているのかもしれない。
子どもが夢中で何かに取り組んでいると、かなりの暑さでも案外平気です。
それが危ないと言う人もありますが、実際に子ども達を見ていると、
案外身体の言うことを聴いています。
ちゃんと時々日陰に行っています。
このように、私の感覚では、
暑さの感じ方は、気温という数字だけで決まるものではないと思えるのです。
私たちがその暑さをどう意味づけているかに、ずいぶん影響されているのです。
子どもは、大人の不安を学習します。
そして、子どもたちはこの大人の構えを、驚くほど敏感に学び取ります。
「暑いから外はやめようね」と毎日言われ続けた子は、
やがて自分の体に「暑いけど、まだ大丈夫かな」と問いかける前に、
「暑い=外に出てはいけない」という公式を覚えてしまう。
子どもを守るつもりでやっていることが、子どもの育ちを排除する方向に働いて
しまっているのではないでしょうか?
もちろん、これは保育者や保護者の責任ではありません。
むしろ、そうせざるを得ない「空気」が、社会の側に出来上がってしまっている。
果たして、私たちはこの状況を放っておいて良いのでしょうか?
次回以降も、引き続き考えてみたいと思います。
