手を使うことが大切です

 
こんにちは。
しばらく時間が経ってしまいましたが、
久しぶりにコラムを配信します。
 
先生方、いかがお過ごしでしたか?
今日は伊藤亜紗さんの『手の倫理』というご著書の紹介と
そこからの着想についてお話しさせていただきました。
 
BGM : Bryan Kessler Summer Rains
 
 
(0)はじめに
 この本は2020年の年末に私の書架に仲間入りしていました。ずっと読みたかったのですが、色々と忙しいこと、そしてその頃の研究には直接的には関わらないこともあるので、後回しにしていました。昨年度で一段落して、いまはこれまでの研究を振り返りつつ、もう1度風呂敷を広げ直して何を追加するべきかを考える時期ということで、この本を手にとった次第でした。
 この本は視覚障害者の研究にも力を入れている伊藤亜紗さん(東工大教授)が書かれた本です。冒頭「さわる」と「ふれる」の違いという視点から私たちを手の世界に引っ張り込んでくれます。詳しくは著書をお読みいただくとして、その随所に幼児教育・保育に活かせる記述があります。ここでは、私が面白いと思った箇所を1つご紹介しようと思います。
 
(1)フレーベルへの言及
著書の冒頭で「フレーベルの恩物」に関する話が出てきます。
 
p.28「フレーベルが何より大切にしたのは、子供が身の回りの石や木を手に取り、それをさまざまな仕方で動かしながら、しだいにその性質を理解していく過程でした。(中略)フレーベルは、実にあたたかいまなざしで、忙しく動く子供の手の動きを描写します。」
 
そして、石を手にして遊ぶ子供達を観察したフレーベルは子供が石を見るだけでは理解し得ない性質である「書く・描く」という性質に着眼して嬉々として描き続ける子供の様子を描写している。
 
p29 「彼が開発した恩物も、重要なのは、目で見てわかる幾何学的な形ではなく、実際に手にとって遊ぶことによってわかる、さまざまな性質でした」
 
p.30 「興味深いのは、こうして石や木、物の性質を知っていくことが、フレーベルにおいては、『自分自身を知ること』へと折り返されていく点です。」
 
(2)視覚世界と触覚世界
 
その後伊藤さんは「まなざしの倫理」の話を展開します。生身の人間を手で触る行為とまなざす行為は性質がかなり異なることから、目で知る世界と手で知る世界の違いに言及されます。
例えば、
・距離の違い:目は遠くからでも見ることができるが、手は距離をゼロにしないと知ることができない。
・外と中の違い:目であれば知覚主体の外から対象物を知ることになるが、手であれば身体内部まで対象物の特性が入り込むことになる。
 
生身の人間に触れるということは、かなりの出来事である。昔から知っている人間であっても、その人に触れたことがないという人がほとんどではないでしょうか。
 
そこから著書は倫理の話がしばらく展開されます。手の動きと倫理という2つを軸にしながら縦横無尽に話が展開され、止まることなく一気に読み終えました。本書には他にもふれるべき点が多々ありますが、ここでは割愛します。興味がある方はぜひ書店かネットショッピングでお求めください。
 
(3)園内にある「ふれる」の対象
 
さて、この本を読んで私が考えたことを少しお伝えしようと思います。
 
今の時代を生きている私たちは圧倒的に「視覚世界」で生きている気がします。スマートフォンやパソコンを使い、SNSを使いこなしています。食べる(料理を含む)行為以外で、自然物に「ふれる」ことってどのくらいあるでしょうか?その影響は子どもが生きる世界にももちろん影響しています。幼児がふれる自然物って、砂・土、水、木・草・花くらいでしょうか。くらいと言っても、自然物って言ってもそんなに種類があるわけじゃないので、これらにふれていれば結構良いと考えるかもしれません。圧倒的に足りないのは「火」でしょうかね。園内で火を使うことをあと「生き物」も視覚世界として見ていることはあっても、触覚世界では十分に触れ合っているとは言えない気がします。園内にいるのは、一部の昆虫と金魚やメダカなどの魚くらいでしょうか?あと「人」はどうでしょうか?移動の際に手をつなぐことがあるかもしれません。それ以外ではどうでしょう?取っ組みあったり、じゃれあったり、組み合って押したりすることはほとんどなくなりましたね。じゃれあっているときに相手から伝わってくる「本気じゃない感じ」とか、そういうのが遊び感覚だったり、楽しさの根っこだったりした気がしますが、そういう経験がないんですよね。
 
話は逸れますけど、組体操の問題も、怪我につながるようなことになるのって相手の体からの情報を読み取れない子が増えてきたことが遠因なんじゃないかなって個人的には考えています。だって、タワーとかやっているとき、(私は上から2段目とかになることが多かったけど)このまま立ったら崩れるとかわかったもん。だから、立つ前に下のやつに声をかけ、上と確認をしあってゆっくりと立ち上がるって練習してた。それって、もっと小さい頃に姉や友達と取っ組み合ったこととかが根っこにあった気がします。
 
(4)生成的なコミュニケーションとしての「ふれる」
 
 本書ではコミュニケーションの2つのモードとして伝達モードと生成モードについて詳しく分析しています。伝達モードとは発信者が伝えようとした情報が受信者に送られる一方向的なコミュニケーションのあり方です。一方、生成モードというのは二者以上のやりとりの中で、メッセージが持つ意味や、メッセージそのものが生み出されていくタイプのコミュニケーションのあり方のことです。
 園内で子どもたちがしているたくさんの行為の中では伝達モードの接触はたくさんあると思います。絵を描く、粘土で作る、砂を掘る、紙を折るなど物を使った操作的行為はおおむね伝達モードでの物とのコミュニケーションになります。一方、先ほど最近減っていますよねと書いた「火を扱う」とか「生き物との触れ合い」などは生成的な側面を生み出す可能性があります。火の様子を見ながら木を焚べる、木の組み方を変える、大きめの動物を飼育し、その日々の体調を見て、「今日、ちょっと元気がないんじゃない?」というようなことを感じたり、動物にふれて確かめてみる。こういった生成モードのコミュニケーションをもう少し増やせるような気がします。組体操の例でも、生成的にふれあいながら協力して体勢を整えていくための訓練として成立する気がします。このような「生成的なふれあい」がなくなったのも現代的な特徴の1つなのかもしれません。
 
(5)おわりに
 
今日は、伊藤亜紗さんの『手の倫理』の一部をご紹介するとともに、私のコメントも入れながら話を進めさせて頂きました。興味を持ってくださった方は是非とも書店に行くか、Amazonや楽天でポチッとしていただければと思います。
この本を読んで相良敦子先生が書かれた『ママ、ひとりでするのを手伝ってね!』という著書の中で紹介したご自身が新聞に書いた記事の一部を思い出しました。
 
p.9
 子どもの知能は手を使わなくてもある水準に達します。しかし、手を使う活動によって子どもの知能はさらに高められ、その性格は強められます。逆に、子供が手を使えるものを見出せず、手を使って周囲にかかわる機会をもたない場合、また、手を使いながら深く集中する体験をしたことのない子どもは、幼稚な段階にとどまり、人格は極めて低いものとなります。
 そんな子どもは、素直になれなかったり、積極性を欠いたり、無精で陰気な性格になってしまうのです。ところが、自分の手で作業できた子どもは、明瞭な性格とたくましい発達を示します。
 
と書いています。手を使うことの大切さを端的に示した1つの例だと思います。日々の保育の中ですでに考えられていることだと思いますが、いまの活動の中に、手をさらに使う活動を入れてみてはいかがでしょうか?今日もお付き合いいただいてありがとうございました。

保育者支援ネットワーク「保育のみかた」運営責任者

博士(教育学)

保育コンサルタント

園庭づくりコーディネーター

[著書]

『ワクワクドキドキ園庭づくり』(ぎょうせい)

『遊びの復権』(共著)(おうみ学術出版会)

保育者の「相互支援」と「学び合い」の場

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