(1)はじめに
岩波新書から河合隼雄先生の『子どもの宇宙』が出版されたのは1987年。私が中学生だった頃だ。私がこの本と出会ったのは、おそらく10年くらい前だろうか?その頃の読みと、いまの読みでは全く違うが、いまでも色褪せることなく、私に刺激を与え続けてくれている。ご存知かとは思うが、河合先生は日本で初めてユング派の精神分析家としてのトレーニングを受け、免許皆伝され、この国に精神分析の考え方を広く伝えてくれた方である。絵本や児童文学、神話など、その中に豊かに広がる精神世界を解説すると共に、具体的に心の世界を紐解いてくれた方だと私は認識している。
(2)子どもを理解するということ
さて、前置きはこのくらいにして、『子どもの宇宙』について話をしたい。就学前教育・保育の世界にいる人たちは、子ども理解をいつも試みている。時折気になるのは、私自身を含め、その視点が「大人から見た子どもの世界」にとどまっていないだろうかという疑問である。子どもを理解するとはどういうことなのか。子どもの何を理解したら、子どもに少しでも近づけるのだろうか。子どもはどういうおとなを認めてくれるのだろうか。そんな問いが私の頭には時々浮かぶのだ。
そんな問いを頭に置いて『子どもの宇宙』に目を通す。河合先生は著書の中で、家族・秘密・動物・時空・老人・死・異性という7つの視点から、その無限に広がる宇宙空間の理解を試みている。その文章を読んでいるうちに、おとなの心の中にも広大な宇宙はあるはずなのに、“おとなの宇宙”というタイトルの本は何だかしっくりこない。なぜだろう?という疑問が芽生えた。おとなの心にも宇宙があるはずだが、それが見えなくなっているのだろうか?もしかすると、固定化された視点・枠組みのようなもの、常識のようなものが身につくために多くのおとなは自分の中に広がる宇宙を忘れてしまっているのではないだろうか。いわば、おとなが夜空を見上げた時に、北斗七星やオリオン座を見つけて喜んでいるように、視点が固着化してしまっているわけだ。だが、子どもは星座を知らないから、何の枠組みも持たずに夜空を眺められる。そして、素朴な疑問を持てるのだ。そうして、まわりと1つずつ出会い、全身でいろんな経験をする。
1ページ目にこんなことが書かれていた。長くなるが引用したい。
「大人たちは、子どもの姿の小ささに惑わされて、ついその広大な宇宙の存在を忘れてしまう。大人たちは小さい子どもを早く大きくしようと焦るあまり、子どもたちのなかにある広大な宇宙を歪曲してしまったり、回復困難なほどに破壊したりする。このような恐ろしいことは、しばしば大人たちの自称する「教育」や「指導」や「善意」という名のもとになされるので、余計にたまらない感じを与える。
私はふと、大人になるということは、子どもたちのもつこのような素晴らしい宇宙の存在を、少しずつ忘れ去ってゆく過程なのかとさえ思う。」
就学前教育・保育の世界に携わる私たちは、この言葉を常に忘れずにいなくてはいけない。まずは子どもの宇宙を教えてもらう必要がある。
(3)子どもの宇宙の一端
第2章では秘密について論考している。秘密については、幼児期よりもむしろ児童期頃に関連する内容かもしれないが、その内容はとても興味深い。子どもが秘密を持つことで悲しくなったり、驚いたり、問題があるのではないかなどと不安になる保護者も少なくないようであるが、第2章を読むと秘密が重要であることが見えてくる。
そもそも、自分と他者を区別し、自分とはどのような存在かが見えてこないと秘密は持てない。さらには、その秘密を誰かと共有することによって、その人との対人関係が近づいたり、知られてしまったが故に面倒になったりもする。その面倒を避けるために秘密を知られないようにするのが現代社会であるが、そういう面倒も悪くないものである。例えば、おとなの例ではあるが、夫婦などはまさにそうではないか?夫婦の絆というのは、お互いしか知らないような秘密を知っているからこそ深まっていくものである。仕事での失敗や苦悩、成長するための影の努力など、パートナーしか知らないようなことがある。それが絆になっていく。
子どもも同じだ。自分の秘密を知っている◯◯ちゃんとの心理的距離はとても近い。逆に、自分の秘密を共有できる人がいないとそれは寂しさを感じさせるかもしれない。そういう秘密を共有できる友達と出会うためにも、秘密を持つことは決して悪いことばかりではない。
(4)1人1人のことを知ろうとすること
本書を読んでいて、気づいたことがある。河合先生は「子どもとは〜である」と断定することは決してない。「まぁ、そんなこともありますわなぁ」という河合先生独特の言い回しが聞こえてくるような感じがする。児童文学の主人公に語ってもらいながら、「子どもってこういうことを考えることもあるよね」という感じで、幾つも例示をしてくれる。私たちが “わかったような気になってしまう”ことを戒めてくれているような気すらしてしまう。“子ども”という存在があるわけではない。1人ずつのなおみちゃんとか、はやとくんとかがいるわけである。いわば、そのはやとくんの中にある宇宙は、はやとくんに聞かないと分からないし、もしかしたらはやとくんにだってわかっていないかもしれない。河合先生は本書の中で児童文学を用いながら子どもに近づこうと試みている。決して、何かを知っているかのように断定することはしていない。私たちはこの態度を見習う必要がある。“スカッ”と説明をしてくれると心地良くなり、何かがわかったような気になってしまう。だが、その心地良さは要注意だ。そのことによって目が曇る危険性すらあるのだ。
現代は検索サイトの発達によって検索がしやすくなり、あっという間に「答えらしきもの」に出会えるようになった。問いと答え(らしきもの)の間が極端に近い。だから、「答えがわからない」状態のまま、問いを心の中に留めておくことが苦手な人が多い。研修では「明日から使える技術を教えてくれ」という要望も多い。しかし、子どもはそういう形では理解できない。問いを心の中に留めながら子どもと共に暮らし、話をする中で少しずつ教えてもらうことでしか本当には理解できない。そういう時間を大切にしながら、子どもに迎え入れてもらえるおとなへと成熟することが、私たちに課せられているテーマの1つなのかもしれない。