「べき」を疑った方が良いかもしれない理由

こんにちは。
今日は、9月30日のコラム
の続きで、批判的思考という話をしようと思います。
 
9月30日には若手の先生に向けたお話として、
まずは人の話を聞くこと、信じてやってみることと同時に、
「べき」という正解を押し付ける意見に関しては
「本当に”べき”」なのか?ということを
一旦立ち止まって考える必要性をお話しました。
 
例えば、物騒な話ですけど「人を殺すべきではない」
って言われたとします。そりゃそうなんですよ。
誰がどう考えたってそうです。
 
だけど、人を殺しちゃった人に聞いてみたら、
その人にはどうしてもそうやってせざるを得なかった
理由があるかもしれない。
だからって殺していいって話じゃないけど、
だけど保育をしているような立場の人間からしたら、
その人の言い分に耳を傾けるようなスタンスって大切な気がするんです。
 
「べき」ことってあるんでしょうけど、
本当に「べき」だけで片付けていいのか?
って考えるスタンスですよね。
 
 一旦受け入れることと疑うこと。
この2つの矛盾する話をいかに両立するか?
実は根っこは1つなんです。
 
つまり、
どちらもそういうアドバイスを「自分ごと」にするための手段
だということなんじゃないかと思います。
 
他者からのアドバイスってどこまで行っても情報です。
情報であるうちは「自分ごと」になっていないから、
本当の意味では理解していないんじゃないかって思うんです。
 
汐見先生はこのことを「3人称認識を1人称化する」
と表現されています。
 
今日も難しい話になってしまいました。
にも関わらず、お付き合いいただいてありがとうございます。
 
最近掲示板がとっても静かで寂しい限りです。
なんかも書いていただけると嬉しいです。
 
では、コラムはまた来週です👋

保育者支援ネットワーク「保育のみかた」運営責任者

博士(教育学)

保育コンサルタント

園庭づくりコーディネーター

[著書]

『ワクワクドキドキ園庭づくり』(ぎょうせい)

『遊びの復権』(共著)(おうみ学術出版会)

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