「褒める」のではなく、没入体験を増やす

 

石を拾うことはあっても

玉を捨てること勿れ

 

これは、論文審査をする側に求められるマインドセットのことです。

研究って、これまでにないことを「発見」しようとする営みですから、

一見理解しにくかったり、は?と思うようなものである可能性もあるわけです。

でも、それはこちらがその意味を理解できる能力を持っていないことを

示しているだけなのかもしれない。

だから、石(大したことないもの)を拾うことになるかもしれないけど、

玉(良いもの)を捨てるよりはマシだ、ということになるわけです。

これは人材育成でも全く同じことが言えると思います。

人材は全てが玉という視点もあります。

 

まずはその人や園庭が持っている「良い点」に目を向けようとすること。

それは多くの人が言っていることであります。

簡単なことのようで、実は大変難しいことであります。

私には非常に苦手なことです。

スポーツの指導をしていた時期でも、やはり直したいところにすぐに目に行ってしまう。

意識できている時は良いのですが、意識が薄れると習慣的に課題に目がいく。

 

一方で、「褒めて育てる」みたいなことが流行して久しいですね。

「褒める」という行為は評価することです。

これもまた諸刃の剣です。

褒めてれば良いのだろうと信じて疑わない人が多いことには

辟易しています。

Z世代を象徴する特徴として「自信のなさ」があるそうです。

「褒めて育てる」という流行が功を奏していれば、

こんなことは起こらない。

「褒める」という行為が必ずしも自信にはつながらないということだ。

逆に「褒める」ことを繰り返すことで、

 

・褒められないと自分の行為が良かったか良くなかったかを判断できない

・褒められるために、他の人がして欲しがることばかりをやろうとして、自分が何をしたいか、

その場で何をすべきかがわからない(自分で判断できない)

なんてことがザラに起こっている。

SNSの「いいね!」もこれにあたる。これを欲しがるために、「映え」なんて言葉が生まれ、

「映え写真」ばかりを求めて、虚しい「リア充」競争に明け暮れているZ世代が自信を持てない

というのは、あまりに虚しい気がする。

僕個人は自信なんて曖昧な概念をそもそもアテにすること自体がかなり心許ないと思っている。

シカゴ大学のチクセントミハイが「フロー体験」と呼び、

保育の世界では東大の秋田喜代美先生(現在は学習院大学)が「遊び込む」と呼び、

マインドフルネス・瞑想の世界では「変性意識状態」と呼ばれるような、

遊びの世界に没入するような体験がどのくらいできるかが

大事だと僕は思う。

 

その世界の中にいるときは、

自分が遊んでいるのか、遊びと自分が一体になっているのかよくわからず、

能動的とも、受動的とも違うような心持ちになっている気がする。

時間はあっという間に過ぎ、とにかく楽しくて、他のことが目に入らない。

気がついたら周りが暗くなっていたり、お昼ご飯の時間を過ぎていたりする。

ちょっと痛いことがあっても気にならないし、知らない人が見ていたりしても、

そんなことも気にならない。いわば、自分たちの世界に没入している感じである。

そういう世界に浸っているという体験は、日常とはちょっと違う。

 

遊び終わった後に、「も〜、めっちゃ遊んだな〜」とか

「楽しかったな〜」とか「もうお腹いっぱい」と思えるような、

没入感がなんとなく「自信のようなもの」になるんじゃないかと私は感じています。

 

いかがでしょう?

 

 

保育者支援ネットワーク「保育のみかた」運営責任者

博士(教育学)

保育コンサルタント

園庭づくりコーディネーター

[著書]

『ワクワクドキドキ園庭づくり』(ぎょうせい)

『遊びの復権』(共著)(おうみ学術出版会)

保育者の「相互支援」と「学び合い」の場

〒524-0102 滋賀県 守山市 水保町1461-34 

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