『驚くべき学びの世界』を読んで

 

 

(1)はじめに

レッジョ・エミリアの展覧会を描いた『驚くべき学びの世界』を読んだ。これまでレッジョに限らず、モンテッソーリやシュタイナーなど、教育手法や体系化されたものにはあえてあまり没入せずに、必要性を感じた時、つまり私自身のレディネス(準備状態)ができた時に、初めてその理論に入り込みたいと考えていた。そうしないと、本当の意味で学べない、別の言い方をすると表層的な読みにとどまってしまうのではないかということを恐れたからである。

 

(2)レッジョ・エミリアと子どもの人権

さて、今回、「主権者としての子ども」ということを考えるにあたって、レッジョ・エミリアでやっていることを学ぶ必要性を心の奥底から感じたので、初めてこの本を手に取った。大人になると忘れてしまう、子どもの頃にだけ持っている性質、私が言うところの「子ども性」という観点からこの本を読んだ時、その性質に対する畏敬の念を持った大人達の姿が浮かび上がってくる。彼の地で子ども達に関わっている人たちは、我々とはかなり異なる子ども観を持っている。例えば、11ページから15ページに巻頭言を書いているデルリオ市長は「子どもたちに、わかりきった道を示すのはよしてくれ。どうしてもというのなら、人生の魅力だけを教えて欲しいんだ。」というイタリアで流行している歌の詞の引用から巻頭言を始めている。さらに、「子どもたちは、私たちの市の市民であり、しかも素晴らしい能力を持った市民」と位置付け、「感嘆の眼差しを向けている」と書いている。

 

さらに22ページから25ページに書かれている展覧会の説明文章の中には、私には本当の意味では理解できない言葉がいくつも織り込まれている。豊かな規範、教育と学びの権利、異文化間のダイナミクス、シチズンシップ、連帯、参加、人間性と自由と民主主義の選択など、おそらくヨーロッパの人たちが理解しているレベルでは理解できないのではないかと思える言葉達である。

 

日本では子どもを「小さい存在」「まだ何も知らない、いたいけな、次第に大きくなる存在」と位置付けて疑わない。レッジョ・エミリアの人たちには、そもそもそういう感覚がないようだ。だから、保育者たちがやっている準備・トレーニング・思索も日本の多くの先生たちとは違っているように私には感じられる。

 

(3)遊びや芸術に分けるのではなく〜まわりと話し込む

この本の中には、素敵な保育実践がいくつも書かれているが、例として第2章の「階段の声」(88ページ〜101ページ)のセクションを取り上げてみたい。子どもたちは音を通じて場所と対話し、その性質を知る。ノイズ(音)が単に聞こえるだけじゃなくって、心臓に届いてくる感じを語る子どもは自分の身体を使って場所と接していた。靴のどの部分を当てるとその場所とおしゃべりができるかに気づいた子たちは親の靴を借りてきて、場所と対話をした。さらに、パソコンを使って音の増幅やスピードチェンジをすることでさらに音への気づきを深めたり、絵にすることによって「音を見る」という作業をしていた。

 

子どもたちは自分のまわりと出会い、音を通じてまわり(ここでは特に階段)と「対話」をしている感じがある。それが遊びなのか、表現活動なのか、ということはおそらくどうでも良い。どちらでもあるのだから。それよりも、子どもたちの気づき、言葉、探索と発見に大人たちも心を寄せ、共に探索し、気づきを増幅させて、さまざまな形で表現・共有する。そうやってまわりと話し込んで、世界の美しさに自分の心身を通じて気づくことが大切なのではないかと改めて感じた。

 

 

保育者支援ネットワーク「保育のみかた」運営責任者

博士(教育学)

保育コンサルタント

園庭づくりコーディネーター

[著書]

『ワクワクドキドキ園庭づくり』(ぎょうせい)

『遊びの復権』(共著)(おうみ学術出版会)

保育者の「相互支援」と「学び合い」の場

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