素朴な目で見る(その2)

 

 

 

こんにちは。

ちょうど私が大学生になった年にメジャーデビューしたMr.Childrenが30周年記念を迎えている

ということは…(笑)

学生時代から留学時代、院生の頃、就職してから

ずっと聴いてきました。

 

30周年記念アルバムが届き、また改めて彼らとの時間を振り返る毎日です。

 

 

さて、今日は『素朴な目で見る(その2)』とタイトルに書きました。

以前書いた『素朴な目で見る』がかなり多くの方に読んでいただいています。

素朴な目で見る

 

その話と関連する話題なのですが、一方で、話の多くは津守真先生の

『子どもの世界をどう見るか〜行為とその意味』という本から着想を得た話です。

 

 

(1)遊びと子どもの世界

  • 津守先生のご著書については、以前も少しだけ紹介させてもらったことがあります。
  • 読書会や議論する場を作りたいなぁという記事を書いた2月とか3月頃の
  • 記事だったと思います。

自由闊達な議論の場をつくりたい

これからが楽しみ♪

この時にご紹介したのは『保育者の地平』という本でしたが、

今回は『子どもの世界をどう見るか』にしました。

津守先生は大学で幼児教育の教授として勤務をされた後、

保育者となって実際に子どもたちとともに暮らすという生活を選択されました。

 

学者として、保育者として感じたことを書かれています。

この本の第1章では描画を子どもの表現形態として見る中で見えてきたことを

書かれていますので、関心のある方はぜひ手に取ってみてください。

 

さて、私がこの著書の中で特に気になったのは第2章です。

第2章は「遊びと子どもの世界」というタイトルです。

そこには4つの節があるのですが、そのうちの3つが

1.子どもとともに過ごす意志

2.生命的応答の展開

3.先入観を取り除くこと

  • となっています。

日頃子どもと過ごしている先生には当たり前のことも少なくないと思いますが、

これらの1つずつについて、ちょっと考えてみたいと思います。

 

(2)子どもとともに過ごす意志

 

津守先生は1日が始まる時「今日の1日を子どもとともに過ごそう」と覚悟を決めるそうです。

子どもの方もさすがで、本気で付き合ってくれる人でないと思うと、本心を露わにしない

と津守先生は書かれています。

 

逆に、子どもが望むのであれば、いつまでも一緒にいていいのだよという気持ちで、

ゆっくりと子どもとともにいると、子どもは心を開いてくれると言っています。

 

ここで津守先生が言っている意志というのは、近年多くの先生が持っている感じの

心もちとは少し違う気がします。

 

子どもとその時を一緒に過ごそうという意志は、それが子どもに対して向けられてしまうと

それは圧力となり、重荷となる。そうではなく、「子どもとの生活を、自分にとっても、

子どもにとっても、意味あるものとし、両者にとって大切な人生のひとこまとして生きようとする」

(P.119-120)心もちであると言っています。

 

子どもだけを見ているのではなく、自分にとってもその時間を大切にする。

そのためには子どもに対する目の向け方も大事であると津守先生は言います。

「恣意に陥ってはならず、修練を要する」(P.120-121)

とも書いています。

 

恣意性がない見方とはどういうものか?

 

もう少し読み進めてみましょう。

 

(3)生命的応答の展開

 

私は園に行くと園庭で遊ぶ園児たちをなんとなく眺めます。

時々、子どもと目が合ったりします。子どもはどうしたらいいかわかりません。

私はニコッと笑ったり、手を振ったりします。

時には柱の影に隠れます。

すると、ちょっとだけ身体をズラして覗き込んだりします。

私は恐る恐る顔を柱から出して、子どもを覗き込みます。

すると、向こうは笑顔になったり、照れて向こうも何かに隠れたりします。

そうこうしている間に、お互いに隠れたり、見つけたりしながら、

応答的な遊びの中に自分達が心地よく共存していることに気づきます。

 

津守先生は、こうした単純とも言えるような相互の応答の中に、

人間の基本的体験があると言っています。ややもすると、こういうやりとりは

必要ないとか、次の活動への切り替えを促す大人がいるかもしれません。

でも、自然に推移するこのようにいろんなバリエーションを生み出しうる

多様な活動は言葉で記述できないくらい多様であり、子どもも大人も

多様な可能性の中にいます。

 

津守先生はこうした多様な行為のことを「生命的応答」と呼びました。

 

子どもとの生活の中にはこのような機会はたくさんあります。

先生方もこうしたやり取りをすることが少なくないでしょう。

これを何の自覚もなくやるのか、それとも大人としては意識的に配慮しつつ、

意味を理解してやるのとでは、その価値は全く違ってきます。

 

せめて、大人はその価値を知り、子どもが飽きてどこかに行くまで、

その遊びを楽しみながら、付き合い続けることが必要です。

 

そのためにはパスカルが『パンセ』の中で言っていた「繊細な精神」が求められます。

繊細な精神とは、「現象をそのままに見る目」と言い換えてもいいかもしれません。

 

以前、私が「素朴な目で見る」と言ったことと同じこととも言えます。

素朴な目で見る

(4)先入観をとり除くこと

 

この「繊細な精神」や「素朴な目」のことを、津守先生は「先入観をとり除く」と言っています。

 

私も園で保育を拝見していて、自分が陥っていることに気づくことがあります。

それは「概念的理解」をしてしまっているということです。

先生方も多くないですか?

 

例えば、お絵かきをしている最中に、ちょっと描いてはクレヨンを取りに行ったり、

他の子のところに行って何を描いているかを見てちょっかいを出したり、

先生のところに来ておしゃべりしたり…

こういう子を「落ち着きがない」という言葉で理解していませんか?

 

こういう概念的理解をしてしまうと、子どものありのままを全体として

観るということができなくなってしまいます。

 

私は「認める」という言葉がよく分からないとお伝えすることがあるのですが、

「認める」も実際の行為というよりは概念に近いように思います。

 

概念的理解をしてしまうと、その子にラベルを貼ることになり、

理解が一面的になってしまいます。

そうなったら、もうその子の心の中に本当の意味では入れてもらえないように思います。

 

学者というのは、雑多な現象にフレームを与えて概念化することが1つの

仕事だったりする。そういう仕事をしていると、つい簡単に概念化したくなる場合もあります。

そんな時、「イヤイヤ、ちょっと待て。安直に、勝手にわかったような気になってはいけない」

と自分を鼓舞しています。

違う見方はできないか?この子がしようとしていることは何だろうか?と何回も問い直します。

 

「動詞で観る」ということを園内研でよく言いますが、

これはまさに「現象を解いて観る」1つの方法だと思います。

現象を構成している動きは子どもの内面を表現しており、

それはすぐに概念化できるほど簡単なものではないということが言えるでしょう。

 

(5)終わりに

 

今日も「素朴な目」ということについて津守先生の言葉から考えてみました。

先生方が考える「素朴な目」についても良かったら教えていただけたらと思います。

 

では、また👋

保育者支援ネットワーク「保育のみかた」運営責任者

博士(教育学)

保育コンサルタント

園庭づくりコーディネーター

[著書]

『ワクワクドキドキ園庭づくり』(ぎょうせい)

『遊びの復権』(共著)(おうみ学術出版会)

保育者の「相互支援」と「学び合い」の場

〒524-0102 滋賀県 守山市 水保町1461-34 

Mail: daihyo@studioflap.or.jp