【多様性】という言葉を改めて考えてみた

多様な人間って何のことを指しているのだろうか?

 

 

こんにちは。

 

年末のランチ会で

特別支援に関するテーマの話になりました。

詳しいことは書きませんが、

ベテランの先生から

いま書類を書いているような園児って

昔もいたよねって話がありました。

 

そういう子がいてくれることで

周りの子が育っていって、

その子が中心になって

みんな楽しくやっていたりする。

もちろん、その中でその子も育っていた。

 

でも、いまはそういう感じにならない。

なんでなん?

って感じです。

 

その話から端を発して、

今日は多様性ということを考えてみたいと思います。

 

ここでも時々言ったり書いたりしていますが、

僕は本当に現代社会が使っている

 

多様性

 

って言葉の意味が理解できないんです。

その裏側を語っていますので、よかったらお付き合いください。

ただ、いつものように理屈っぽい話が続きますので、

めんどくさい話が苦手な方はスルーしちゃってください(笑)

 

 

 

多様性を認めるってよく言いますけど、

それは何を認めているのですか?

いろんな価値観を持っている人をそのまま認めるってこと?

「そのまま」ってなんですか?

 

こういうことは具体的に考えた方が良いので、

例えば、仮に視覚障害を持っている人を

認めるっていうのはどういうことなの?

見えないことが気にならない世の中を作るってこと?

見えている人が見えている人を助けるのが当たり前になるってこと?

 

視覚に障害がある方と仲良くさせてもらっていますが、

その人を認めるってどういうことだろう?と考えたら、

普通にする

ってことなんじゃないかな?って思ってるんですよね。

 

例えば、人と話すのが苦手な人、

夜すぐに眠くなっちゃう人、

朝起きるのが苦手な人、

それって別に障害とは誰も言わないし、

 

まぁ、公共の福祉に反しない限り

「あいつは朝弱いし、しゃ〜ね〜か」

ってなるでしょ?

 

それと一緒なんちゃう?って思うんですけど、

間違ってる?

 

「多様性」とか言い出すとすでにラベリングをしていて、

余計にややこしくならん?

その段階で普通と普通じゃないことを区別してるもん。

あんまり「多様性」とか言いすぎると言葉狩りっぽくなっちゃう。
 
多様性を認めない人を認めないという人は
多様性を大切にしているのだろうか?
みたいなことになってくるわけです。
*わけわからん😓
 
私が大切にしていることは、
どんな個性を持っている人であっても、
ある程度の「選択権」を保証されているってこと。
 
あらゆることを選択できる権利はないわけですよ。
勉強ができない人は医者や弁護士にはなれないし、
足が遅い人がサッカー選手になることも普通はできない。
でも、他の選択肢はあるわけですから、
そういう意味で、
日常生活を程々の快適さで暮らす選択肢を奪われていないとかは
大切な気がします。
 
視覚障害の方がそれを理由に人生の中で諦めなきゃいけないことが
めちゃくちゃ多いのはダメだけど、もしかしたら
多少のことは仕方ないのかもしれない。
 
 
そうやって考えてみたら、
まず大切なのは
多様性という言葉に惑わされず、
具体的に考えることなんちゃうかな?って私は思います。
 
良かったら、皆さんのご意見も教えてください。
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保育者支援ネットワーク「保育のみかた」運営責任者

博士(教育学)

保育コンサルタント

園庭づくりコーディネーター

[著書]

『ワクワクドキドキ園庭づくり』(ぎょうせい)

『遊びの復権』(共著)(おうみ学術出版会)

保育者の「相互支援」と「学び合い」の場

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