おはようございます。
真夏の暑い時期に、一度子ども観のことについてお話をしました。
その後、皆さんは自らの子ども観を見直してみましたか?
自身に対するメタ認知的な眼差しを向けることは、難しいですが大切なことです。
自身が保育の中で使っている言葉を振り返りながら、言語化してみてください。
(1)子どもの反対語は何か?
言わずもがなですが「大人」ですね。
では、大人はどのように定義すれば良いのでしょうか?
大人の定義はいろいろあるのですが、
多くの場合は経済的な視点を持ち込むことになりますので、
「社会を維持するための生産や制度維持のために労働をし、経済的にも社会制度的にも自立している人」
ということにしておきましょうか。
仮に高卒で働いている18歳であっても、経済的に自立していれば大人ということに
(一旦)しておきましょう。
ということは、子どもは経済的に保護者に負担をしてもらっており、
社会から「大人とは認められていない人」ということになります。
ちなみに、高齢者になると経済活動からは離脱することが多くなります。
この場合、また異なる立場として「高齢者」と名付けられるようになります。
つまり、生産活動・社会維持に資する活動に参与している人は「生産者」となり、
それ以外の子ども・高齢者は「非生産者」となります。
(2)子どもを未来ある存在として位置づける視点の裏前提
子どもは未来がある存在である。
保育をしている私たちはその土台を作っているのだ。
と考えている人が多いのではないでしょうか?
その裏側にある前提が何か?
実際に、平均寿命を80歳と仮定した場合、5歳の園児には75年間という未来があります。
ここでいう「未来」は、そういう意味での時間のことを指しているのだろうか?
もしくは大人もしくは高齢者としての幸せな生活のことを指しているのだろうか?
教育学者の高橋勝(横浜国立大学名誉教授)は『経験のメタモルフォーゼ』(2007)の中で、
大人の位置付けを変えることで、
子どもへのまなざしが変わることを提案している。
通常のライフサイクルでは、人生は壮年期を頂点とした台形が想定されているという。
一方で、高橋は丸型のライフサイクルを想定することを提案している。
写真 高橋勝『経験とメタモルフォーゼ』(p.55より)
つまり、台形のライフサイクルでは子どもは壮年(成人)になるまで登っている存在というか、
成人を頂点として位置付けた発展途上の存在ということになる。
そこでは生産性を中心としたライフサイクルが想定されている。
一方、丸型のライフサイクルは違いがあるだけで、上下はない。
以前の農耕社会であれば、人生は四季にも例えられるような
循環型のイメージで捉えられていた。
子どもは小さな大人とも呼べるような存在で、
福祉の対象でもなく、社会の一員としてまなざされていた。
つまり、子どもが未来ある存在としてまなざされる要因の1つは、
経済社会における生産性がまだない存在であるため
と考えることができる。
(3)子どもも成人も高齢者も人生の時期
写真図2のような円環型のライフサイクルを想定すると、
人生の時期として、単なる違いとして位置付けることができる。
子どもは知識がなく、柔軟な存在であるがゆえに
みずみずしい好奇心や世界観を構築することが可能である。
それは成人や高齢者にはできないことである。
その世界は決して「天使」や「かわいい」だけの存在ではない。
時には悪意や欺瞞、嘘に満ちている。
そしてそれもまた人生を生きる上で必要なことだ。
だからこそ、周りにいる大人たちは子どもが感じる世界、味わっていることに
耳を傾け、その世界の中に共にあることを求められるのだろう。
(4)終わりに
経済的な人間観、もしくは直線的な発達(成長)の物語に根付いた人間観に基づいている限り、
子どもは「小さきもの」でしかない。
そうではない子どもは独自の個性を持った存在になる。
実はこれは高齢者も同じだ。
いま高齢者になることは社会から追い出されることを意味する。
このことによって、高齢者になることの「幸せ」を当の高齢者自身も感じられずにいるのではないか。
身体や細胞が衰えたからこそ見える世界がある。
歳を重ねたからこそ理解できることがある。
私も、5年前に読めなかった本を先日取り出して読んだら、
見事なほどにスラスラと入ってきたことがあった。
経験や知識は決して衰えない。
そう考えたら、人生が本当に面白くなるのは経済活動・社会維持活動から離脱できる
60歳(65歳)以降なのかもしれないとここのところ考えていたりもする。
子ども、高齢者といった「他者」をどのようにまなざす(眼差す・愛ざす)か?
まだまだ自信の目を鍛え続けなくてはいけない。